明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年3月28日土曜日

博労と穢多

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定替相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取置侯所、
日切二至り代銀不時之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩エ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙二書附置申之由
侯へ共甚不謂儀侯条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭エ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯歟又ハ最前之牛馬差戻シ僕歟いつれ之道埒明可申候、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯歟、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相咎侯、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外エ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人エ売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二付、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主エ差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
侯事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 (市川)

えた 穢多 準戸に属する階級の一つで、宮番と共に少人数(集
中しているところもある)ではあるが、藩内諸所に分散居住してい
る。穢多の呼称は藩制中期以後の文書にはかなり散見するが、藩制
初期の文書に、当職より山口宰判垣之内の吉左衛門に対して、支藩
を除く防長両国の皮屋役を申付けるという令書があり、垣之内は穢
多部落であってこの頭取りに南国内の皮革差配を申付けたものであ
ろうが、この文書には穢多という言葉はない[注進案山口宰判]。
これらによって、穢多なる呼称は身分制度の確立する中期以降に多
く使用されたのではないかということを考えさせる。中期の法令
に、穢多は皮類の商買をするのがたてまえであるのに、平人同様に
牛馬商を営む者がおり、これは違法であるので禁止するとある[四
冊御書付]。地方によって農耕に従事する部落もあるが、皮革製造
以外のことに手を広げることは出来なかった。皮革は武具の主材料
であるため、藩府は部落の規模に応じて特牛皮を上納させ、これが
部落単位の貢租となった。又一門等の重臣層も自己の知行地に穢多
の部落をおき、武具製造に従事させている。萩玉江の稜多頭椿権左
衛門は、元旦に城門を開ける役目をしたが、これは元旦の御門開き
に犬猫の死骸があれば不吉のため、掃除するために置かれた役が固
定化し、元旦の城門開きを行なうことにより吉相を祝う者となった
と伝えられている[殿様時代の話]天保二年の百姓一揆には、多
くの穢多部落が一般農民から打毀しにあっている。   (広田)
守貞漫稿にある人曰く、えたはえとりの訛言なり。屠児をえとりと訓
ず。訛りてえたと云う。穢多の字は強附ならん。京師非人の長は非田院
長吏なり。諸国の非人および穢多の惣長なるべし。ただ関八州のみ浅
草弾左衛門、これが長たり。 

和漢三才図会 乞食こつじき・かたい 摂州天王寺の庄・非田院、洛
外の非田寺は乞食の居住区。頭は長吏。区域外の者を非人という。
屠児。和名恵止利。穢多。旃多羅。ほふり。牛、馬、猫、犬を屠り、皮を剥ぐ
のを職業としている。

猿曳 猿回しとも云う。江戸は弾左衛門部下なり。江戸は猿曳甚だ多
く京阪は甚だ稀なり。扮は古手巾をかむり、弊衣を着し、二尺ばかりの
竹を携える。大名等に召される者は、羽織袴を着す。守貞漫稿 

和漢三才図会 巻第七 馬医は伯楽。博労とも。中国起源。


猿の駒引き民俗風習の世界から猿回しが家畜の治療を行なったとする説。徳川時代には将 軍が猿回しに厩のお祓い、安全祈願をさせたとの伝説。
ばくろうは午玄人。伯楽は博楽、牛馬の相を見分け獣医の資格を兼備していた。伯は長・頭 の意、楽は好む、楽しむの意から伯楽は敬称。
伯楽は博労に転訛。その後さらに馬苦労、馬苦郎、馬口労、馬喰どもと賎称化する
一、御入国之御時、御馬足病沓摺草被為仰付候、御馬為御祈祷猿引御尋之上、私先祖猿引召連罷出候得ば、病馬快気仕候に伐て、為御褒美鳥目頂戴仕候、御例を引毎年正月十一日、御城棟御厩より御判頂戴仕、御台所にて鳥目頂戴仕候、中古より西丸下御厩より御判頂戴仕、御納戸方より御鳥目出、只今に至迄頂戴仕候
                              

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