明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年3月28日土曜日

獣医仮免状下付出願手続

山口県達類纂・馬場壽槌編纂。第九類・勧業。四十七頁から。
○獣医蹄鉄工
◎獣医仮免状下付出願手続二十三年九月十三日県令第四十七号
獣医仮免状下付出願手続左ノ通相定ム但明治二十一年九月本県令第七十九号獣医仮免状下付出願手続ハ廃止ス
   獣医仮免状下付出願手続
第一条 獣医ニ乏シキ地方ニ於テ仮ニ獣医ノ業ヲ営ントスル者ハ甲乙書式ニ倣ヒ願書ニ履歴書ヲ添ヘ郡市役所ヲ経テ常庁ヘ差出スヘシ
第二条 獣医仮免状区域内ニ於テ獣医免許規則第二条ノ資格ヲ以テ免状ヲ得タル獣医ノ新ニ開業スル者アルトキハ免許年限中ト雖モ仮免状ヲ返納セシム但実地ノ情況ニ拠リ免許年限中継続営業セシムルコトアルヘシ
第三条 仮免状下付ヲ出願スル者アルトキハ郡市長ハ獣医欠乏ノ地ニ限リ区域ヲ定メ其地勢廣袤牛馬頭数及営業年限等丙号書式ニ拠リ取調意見ヲ具シ願書ト共ニ進達スヘシ
  甲号書式(正副二通一通ハ美濃紙一通ハ半紙)獣医仮免状下付願
             住所(寄留ナレバ本籍ヲ併記スベシ)
              属籍
                氏名
                  年月日
私儀何郡(市)何町(村)何番地ニ於テ獣医営業仕度候間仮免状御下付被成下度別紙履歴書相添此段奉願候也
  年月日            右氏名印
     農商務大臣宛
                 右市(町村)長氏名印
  乙号書式(用紙仝上)履歴書
                氏名
                 何年何月生
                 当何月何年何ケ月
一何年何月ヨリ何年何月マデ何学校或ハ何ノ誰ニ就キ何々修業
一何々
右之通相相違無之候也
  年月日           氏名印
  丙号書式 獣医仮免状下付願調書
             住所
              属籍
                氏名
                 年月生
営業区域何郡(市)一円又ハ何郡(市)ノ内何々町村
区域内地勢ノ嶮夷
同 広袤
同 牛馬頭数
営業年限何ケ年
開業獣医居住地ヨリ右区域境界マデノ最近距離
◎獣医ノ外牛馬の剪刺ナラサル件十九年三月十三日甲第三十三号
従来牛馬医ナル者牛馬ヲ集メ蹄剪刺絡等ノ術ヲ施シ来候處客年八月第二十八号公布実施ノ上ハ右蹄剪刺絡共獣医ニ非レハ施術相成ラス

博労と穢多

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定替相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取置侯所、
日切二至り代銀不時之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩エ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙二書附置申之由
侯へ共甚不謂儀侯条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭エ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯歟又ハ最前之牛馬差戻シ僕歟いつれ之道埒明可申候、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯歟、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相咎侯、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外エ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人エ売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二付、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主エ差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
侯事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 (市川)

えた 穢多 準戸に属する階級の一つで、宮番と共に少人数(集
中しているところもある)ではあるが、藩内諸所に分散居住してい
る。穢多の呼称は藩制中期以後の文書にはかなり散見するが、藩制
初期の文書に、当職より山口宰判垣之内の吉左衛門に対して、支藩
を除く防長両国の皮屋役を申付けるという令書があり、垣之内は穢
多部落であってこの頭取りに南国内の皮革差配を申付けたものであ
ろうが、この文書には穢多という言葉はない[注進案山口宰判]。
これらによって、穢多なる呼称は身分制度の確立する中期以降に多
く使用されたのではないかということを考えさせる。中期の法令
に、穢多は皮類の商買をするのがたてまえであるのに、平人同様に
牛馬商を営む者がおり、これは違法であるので禁止するとある[四
冊御書付]。地方によって農耕に従事する部落もあるが、皮革製造
以外のことに手を広げることは出来なかった。皮革は武具の主材料
であるため、藩府は部落の規模に応じて特牛皮を上納させ、これが
部落単位の貢租となった。又一門等の重臣層も自己の知行地に穢多
の部落をおき、武具製造に従事させている。萩玉江の稜多頭椿権左
衛門は、元旦に城門を開ける役目をしたが、これは元旦の御門開き
に犬猫の死骸があれば不吉のため、掃除するために置かれた役が固
定化し、元旦の城門開きを行なうことにより吉相を祝う者となった
と伝えられている[殿様時代の話]天保二年の百姓一揆には、多
くの穢多部落が一般農民から打毀しにあっている。   (広田)
守貞漫稿にある人曰く、えたはえとりの訛言なり。屠児をえとりと訓
ず。訛りてえたと云う。穢多の字は強附ならん。京師非人の長は非田院
長吏なり。諸国の非人および穢多の惣長なるべし。ただ関八州のみ浅
草弾左衛門、これが長たり。 

和漢三才図会 乞食こつじき・かたい 摂州天王寺の庄・非田院、洛
外の非田寺は乞食の居住区。頭は長吏。区域外の者を非人という。
屠児。和名恵止利。穢多。旃多羅。ほふり。牛、馬、猫、犬を屠り、皮を剥ぐ
のを職業としている。

猿曳 猿回しとも云う。江戸は弾左衛門部下なり。江戸は猿曳甚だ多
く京阪は甚だ稀なり。扮は古手巾をかむり、弊衣を着し、二尺ばかりの
竹を携える。大名等に召される者は、羽織袴を着す。守貞漫稿 

和漢三才図会 巻第七 馬医は伯楽。博労とも。中国起源。


猿の駒引き民俗風習の世界から猿回しが家畜の治療を行なったとする説。徳川時代には将 軍が猿回しに厩のお祓い、安全祈願をさせたとの伝説。
ばくろうは午玄人。伯楽は博楽、牛馬の相を見分け獣医の資格を兼備していた。伯は長・頭 の意、楽は好む、楽しむの意から伯楽は敬称。
伯楽は博労に転訛。その後さらに馬苦労、馬苦郎、馬口労、馬喰どもと賎称化する
一、御入国之御時、御馬足病沓摺草被為仰付候、御馬為御祈祷猿引御尋之上、私先祖猿引召連罷出候得ば、病馬快気仕候に伐て、為御褒美鳥目頂戴仕候、御例を引毎年正月十一日、御城棟御厩より御判頂戴仕、御台所にて鳥目頂戴仕候、中古より西丸下御厩より御判頂戴仕、御納戸方より御鳥目出、只今に至迄頂戴仕候
                              

品部と雑色

●品部 しなべ

部は古語では「伴・とも」.氏姓時代の国家の政治・業務組織の称である部(とも・べ) ・部曲(かきのもと)の系統を引く.律令制下に雑戸とともに良民の最下層に位置づけら れる雑色(ぞうしき)階級が品部.氏姓時代の部曲(かきべ)は,国家や朝廷の編成していた宮廷官掌の部や特定手工業従事の部および農耕従事の田部などに対し,原則的に豪族私 有の部であったと考えられている.
 大化2年紀には「品部」という用字もあって,律令制下では,「職員令」図書寮の条の紙 戸,内蔵寮条の百済戸,雅楽令条の楽戸,造兵司条の雑工戸,鼓吹司条の鼓吹戸,主船司条の 船戸,主鷹司条の鷹戸,大蔵省条の狛戸,典鋳司条の雑工戸,織部司条の染戸,大膳職条の雑 供戸,典薬寮条の薬戸・乳戸,造酒司条の酒戸,園池司条の園戸,土工司条の泥戸,主水司条 の氷戸,左右馬寮条の飼部などが品部である.

●雑色 ぞうしき

【律令体制下の雑色】良の最下級身分で,農民同様に口分田の班給を受けたが調庸や兵役 を免除され,宮廷工房に上番したり在郷のままで手工業生産に従事して製品を貢納したり した品部(例:治部省雅楽寮に隷属した楽戸,宮内省造酒司に隷属した酒戸など)や雑戸 (例:兵部省造兵司の雑工戸,大蔵省の百済戸など)の民で,賤に近い扱いを受けた.律令 制が弛緩するのに伴い王臣・寺社の工房や荘園に流入して,犬神人や堂衆,散所民となる者が少なくなかった.

【貴族的王朝体制下の雑色】朝廷の官衙はもとより,御所や院,公卿家,寺社に隷属して雑 役に駆使せられた無位の下級役人.無位のため位袍の当色がなく,雑色の着服を用いたことによるとか,雑役勤仕によるとかいわれるが,雑色人の略称であり,呼称の所以は不詳.朝廷の雑色人は,布製狩衣仕立の着衣(色に定めなし)に平礼烏帽子(へいらいえぼし)を冠 ったが,その服装をも雑色と称した.王臣寺社の荘園に流入して,年貢所役を免除される代 わりに,領主経済に必要な手工業品の生産や狩猟,漁労,製塩,牧畜等に携わったり,年貢の 運輸や駕輿丁,清掃(浄め)などの雑役を負担して,散所供御人(さんじょくごにん),散 所雑色と呼称した者も少なくなかった.これらの雑色には,律令制下の品部・雑戸の系譜を引く者や,律令制の収奪を逃れた浮浪・逃亡に出自する者が多かった.

【鎌倉・室町幕府体制下の雑色】鎌倉幕府の番衆組織のなかで,侍・格勤・中間・小舎人 についで最下位に置かれていた下級番衆で,御使雑色,朝夕雑色,国雑色の3種があった.室 町幕府のもとでの雑色は身分がさらに低く下り,触状の使者・営中の雑役・道路の清掃・ 行列の警固・先走りなどに駆使され,足軽,走り衆とも呼ばれ,やがて一般の家僕・下僕も 雑色と呼ばれるにいたった.

【京都所司代に隷属した四座雑色】室町時代末期から江戸時代にかけて,京都所司代の手 先となって市中取締りに当たった四座の雑色があった.五十嵐・松村・松尾・荻野の四氏 をそれぞれ上雑色として,四条室町を基点に市中を四方角に区分してそれぞれ分担し,下部組織として下雑色8名,見座2名,中座12名および最末端に穢多・非人をおくもので,禁裏は もとより門跡・摂関家をはじめ,将軍・幕府役人らの邸宅警固や市中往還時の警備に当た ったほか,布令の伝達,宗門改めの際の検査,訴訟の進達や刑場の立会い・祇園祭の管理,祭日や縁日の取締り,芝居など興行の取締り等,のちになって町奉行所の任務に相当する行政・司法・警察治安などの広範な業務に携わる半官半民の組織であった.

犬養、馬飼、鳥飼、鷹飼、鵜飼、

漢字は四世紀末から五世紀初めに朝鮮半島から渡来してきた人々によって伝えられた。こ の人々の末裔が史(ふひと)で、大和王権の記録を漢字で表記した。帝紀や旧辞の記録を元に紀記が編纂された。

朝鮮半島からの渡来人
4c末~5c始め 応仁・仁徳朝
5c後半 雄略朝
6c末~7c始め 推古朝
7c後半 天智朝
8c 奈良朝

殺牛馬祭祀

殺牛馬祭祀

古代の日本に牛や馬を殺して、いけにえとして捧げ、雨が降るよう祈る、祭祀があった。
 殺牛馬祭祀は、古墳時代後期にはすでに日本に伝わっていた祭祀で、帰化人によってもたらされて次第に各地に広まっていったと考えられる。特に、神奈川県の柁切遺跡と山口県の周防国府跡は、殺牛馬祭祀を考える上で非常に重要である。
 また、平城京をはじめ各地から土馬が発見されているが、土馬による祭祀は殺牛馬祭祀の延長線上にあると思える。
 殺牛馬祭祀は古墳時代後期に始まり、奈良・平安時代を通じて盛んだったが、その間には時期的変質があったと思える。
 丑年生まれの桓武天皇は牛の殺されることを嫌って、たびたび殺牛を禁止する法令を出しているので、そのような禁令や祈雨の社としての丹生川上神社の成立などによって、殺牛馬祭祀も変質をきたしたと考えられる。
 
   殺牛馬集祀の伝来

 殺牛馬祭祀を考える上で、「日本書紀」皇極天皇元年(六四二)七月戌寅条に、戌寅、群臣相語之日、随村々祈部所教、或殺牛馬、祭諸神社。或頻移市。或頑河伯。既無所効。蘇我大臣報日、可於寺々転読大乗経典。悔過如仏所説、敬而祈雨。
とある記事に、まず注意する必要があろう。百姓たちが村の神主の教えに従い、牛馬を殺したり河の神をまつったりして、雨が降るよう祈願している。しかし、そうした祭祀には効果はない。そこで蘇我大臣蝦夷が、読経によって、仏に雨を祈ることとした。
 「書紀』は右の記事に続いて、蘇我大臣の仏への祈願で小雨が降ったが、必要な雨量に満たない。そのため天皇が天に祈ると、大雨が降ったという記事を載せている。
 とにかく、右の記事によって飛鳥時代に、殺牛馬祭祀が行なわれていた事は確かである。
 考古学的には、殺牛馬祭祀は古墳時代後期にまで、さかのぽることができる。
 神奈川県の蛇切遺跡は、六世紀末~七世紀初めの頃の遺跡で、右で囲んだ直径一・四mの土壙の中央に、西向き・仰向けに埋納された牛頭骨があって、両角・下頓部は失われていた。牛頭骨の上や周辺から、集りに使われた甕や杯などの土器が多数発見された。
 この遺跡から、牛を殺してその頭部を神に牲として捧げ、胴体は解体されてその肉は祭りに参加した人々が、直会したことが知られる。
 牛と馬を食べ比べた場合、牛の方がうまいので、直会を伴う殺牛馬祭祀はいつしか、牛中心にかたよっていったと考えられる。牛がいれば牛を殺し、馬は牛が手に入らない時の、代用とされたと考えられる。
 柁切遺跡の発見によって、古墳時代後期には殺牛馬祭祀は日本に伝えられて、広く行われる事となり、飛鳥時代に至っても盛んだった・その祭祀は祈雨と結び付き、農村にとって死活を意味する重要な祭礼となったことなどがわかろう。

散所について

さんしょ・散所について

『中世賤民と雑芸能の研究』盛田嘉徳・平成6年2月5日.雄山閣出版の第三章に「散所に関する研究の変遷」がある.中世賤民の主流は河原の者と散所の者で,他に谷の者・芝の者・道の者・巷所等がいるとされる.さんしょ・さんじょとは散所,産所,算所,山所,山上,三所,三条,山庄,山升,山桝,山椒とも書く.森鴎外の山椒太夫の山椒はこの山椒である.享保十九年の「近江輿地志略」には産所村があると述べている.さんしょ・さんじょは一般に散所と書くがこの散の意味は散田の散と同じである.また,産を穢れとして村の外で出産した事から産所の名が出たともされる.中世の散所身分は良と賤民の中間以下の身分である.
第二章は賤称語源考で鷹の餌を集める職務から餌取りと称せられる人々があったと述べている.
第四章の「長吏法師考」には荻生徂徠の「南留別志」にゑたを長吏といふ,張里の誤なるべし,ばくらうといふも伯楽の誤なるべし.
鎌倉時代の書写(推定)「節用文字」に張里・ムマクスシ
文安元年(1444)の「下学集」に馬口労・バクラウ
天正頃「伊京集」に伯楽・ハクラク・馬医師
文安三年「壒嚢鈔」に馬薬師(ムマクスシ)をハクラクと云伯楽と書く.文選には張里をムマノクスシと詠めり.天文年間の「塵添壒嚢鈔」にも同文あり.
弾左衛門由緒書に御入国之御時,御馬足痛・・・とあり.
 

愛媛県の獣医養成

玉井豊著「愛媛篤農伝」愛農刊行会(松山市下伊台町)発行・昭和四十四年。愛媛県の獣医養成 愛媛県仮病院を明治八年に松山小唐人町(今の東雲高校)に移転し、『松山病院収養館』とし、西洋医学による医師養成の医学校を開くが、明治 十九年には廃止となる。その後、医学校の跡に、宇喜多秀穂が獣医学講習所を設け る。講習生四十名。明治二十年十二月文部大臣認可の『愛媛県立獣医学校』となる。明治二十五年廃校となる。卒業生百十余名。飯尾平太・獣医講習所卒業。元治元年一月二日、今治市国分・旧越智郡桜井村大字国分に生まれる。明治二十年頃り、昭 和二十三年頃迄診療に従事。子息秀雄、孫満雄、二朗、弟新太郎、甥豊も獣医師。 

2009年3月27日金曜日

開田村郷土資料館所蔵「馬痾癒秘伝」

開田村郷土資料館所蔵「馬痾癒秘伝」

馬えとかいの事
一、春はきのへきのと病大事
酢きものをかふへし
巳の時なおるなり
一、ひのへひのとにハ酢きもの
あまきものにかきものかふ
へし卯巳の時なをる
一、仝つちのへつちのとには
にかきものかんざうかふ
へしよく治るなり
一、仝かのへかのとにハ塩を

かふへし未辰戌の
時なおるへし
一、仝みつのへミつのとには
酢きものをかふへし
あまき物必へし申酉
戊の時なおるへし
一、夏ハきのへきのとには
にかきものをかふへし
あまきもの必なり戌寅
卯巳の時なおるへし
一、仝ひのへひのと大事也

人しんかんさう酢きもの
かふへし塩ハ必なり
巳午丑未の時になおる
一、仝つちのへつちのとには
にかき物をかふへし
からきものもよし巳午
未辰戌の時いゆる也
一、仝かのへかのとにハあまき物
かふへしにかき物必也
一、仝みつのへミつのとには

すきものをかふへし
あまきもの必也但し申辰
一、かうらい薬の事
一、茯令 一、かんざう 一、かきからの玄
一、人参 一、くしん 右何東分
合セ事馬の病四キ四セ
んを     馬した
にぬるへし
一、かうらい薬万病療也
きしの足玄焼かきからの
玄焼東分合くしんごしつ

すみつ少加へ味噌を丸事
薬中へかうらいのこうよく
す つヽ入事三粒ほと
かふへし馬の乗すくミ
いきあひものくいにらミ
するものによし
馬の危事立つあり
鼻より血の出る事はいの
病也かく連のはり事足
の形也股の内かさをなす
事かんのはつらひ也

しさうのかたち家の馬なら
ハ一さう立み事かうて五十
日の内ニたつへし
人の馬ならハ養生すへ
からす一しさうてん三の事
とうきのあらはいせんこの

きのあらはい三つヲいふ也
合やうに口伝あり四き是に
鼻より血出すハあき一さう
さんミヲかふへし脹の内ニ
かさなすハはるの一さう
さんミをかうへし五十日の内

たつへし
  馬の目薬の事
一、柳 一、えんせう 一、明ばん 
一、わうへき何も粉
にしてさす此薬あん
き第一の秘伝也
  ねつひ事ないら薬也
一、のさらし中 一、かきから中
一、白にしのから大 一、土りう中玄
一、たいおう中 一、せんたいおう中侭
一、くしん中 一、唐おしろい少まし

一、しやかう少 一、くこ少
右九ミを合
ないら薬事
一、茯令一セン 一、おもと一セン
一、やまもも一セン 一、天南生一セン
一、      一、烏瓜三セン
 右五味酒にて用へし
  右同薬
一、こせう一セン 一、やまもヽ二セン
一、ふくりう一セン 一、かんざう一セン
右四味酢ミつ用ゆ
へしたり

 十二ないらのぬく薬
一、黒竹玄 一、いのこつち
一、烏瓜 一、蒲根
一、逢根 一、ふなはら
一、しんぶくりう 一、松の緑
一、杉の緑 一、にらの根
右何れも粉にしたる但し
黒竹三ト入て濁酒味噌
塩入て一日ニ二度ツヽ但一度ニ
五 ほとつヽかふへし
一、馬のいさミ薬に夏螫

の糞を七日酒にひたして
是粉にして用へし秘伝也
一馬の形冷熱の見様事
熱ハ舌乾き脉つよし
但し  に脉あり
うちまたあおく後足赤
はるなり又ひえの馬の舌
ぬれたるハ脉しづむ
なりつねの  たつへし
ないらの馬ハした根熱なり
眼にやに少出るなり
馬の方ニ心口の事

一、正月丑子 一、二月丑卯 
一、三月卯巳 一、四月申酉
一、五月午寅 一、六月戌巳
一、七月亥巳 一、八月戌子
一、九月丑辰 一、十月丑巳
一、十一月戌子 一、十二月卯寅
右時ニ療治すへからす
 馬五性の事
一、青あし毛 金を必 木性 此性庚申辛酉の病大事
一、栗毛ひばり毛 水を必 火性 壬子癸卯丑の病大事也

一、  毛かすけ 木必 土性 甲乙卯辰巳の日あしし
一、二毛くろ毛 土必 水性
  病時は日性ヲ知ル事エトの性たり
一、卯辰巳日と時木性   馬の性日
             ヲ見テ相克
一、午の日と時      ヲ見ベシ
             相克ナらハ
一、酉戌亥日時金性    大事と見
             ルへし
一、未申 丑日時土性   なホりよし
一、子の日と時水性
日の性はハイヘスエトノ性次第ニ見合テ可也

右時の性と馬の性トヲ
看合テ相性相克
総体見て療治すへし
  馬病陰陽を知る事
病北ヨリ来  あし毛陽
一、丑卯日時ニ 但しとちハ陰也
仝東ヨリ来ル  くり毛は陽
一、巳午日時病  ひバリ毛陰也
仝南より来ル  つき毛ハ陽
申酉日時痾   かわら毛ハ陰也
辰の日病春東より来丑ハ冬北より
来ハ病南より来
丑未辰戌の時  かけハ陽也
        さるけ陰也

一、亥子日時病  くり毛陽
         二毛陰也
陽の馬ニハ左に病あり
陰の馬ニハ右ニ病ありと
しって療治すへし
右四季による事五形
如病也
  馬の形時時知る事
一、丑時病馬ハ 申時痾ツク
一、巳午時ニ痾 亥子時病ツク

一、丑未辰戌時病 卯時痾ツク
一、亥子時病ハ 丑未辰戌時病也
としるへし相尅病時ハ
大事なり
      十一月  三  七  庚辛
一、木性馬  沐    襄  絶  酉戌亥
      子日         申日大事

      二    六  十  壬癸子
一、火性馬  沐    襄  絶  之日大
      卯    未  亥  事也

      八   十二  四  申乙戌巳卯
一、土水   沐    襄  絶  壬癸大事
      酉    丑     子日
                 巳辰乙丑刀未
                 甲之日
      五   九   正  丙丁
一、金性   沐   襄   絶  午日
      午   戌   丑
    陽乾戌亥  陰坤未申
    仝坎子   仝離午
陰陽二 艮丑    仝兌酉
    仝震卯   仝巽辰巳

馬ヘヲヒリタレルハコクチウ云虫也
此薬にハいわう十二匁ねぶか
の白根ヲ手一束ニ十二把味
噌をこく入薬ホとせんし
白ら根を一味ニせんし
七日かふへし虫イノフニ有
ふんに虫阿る物なり
  妙香散馬ニ熱薬也
一、甘草  一、茯苓   一、にんぢん
一、ここう 一、めうこう 一、おばこの根

一、川弓 一、こせう 一、ホうり三つ
一、せんたいこう 一、なんもつこう
十一色何れも粉にして東分
合セ塩少入て度々かふへし
  長命丸
一、忍ぢん 一両 一、ちんかう 二両 一、甘草   一両
一、おんし 一両 一、とうき  二両 一、あひのは 二両
一、おわう 二両 一、ぐつのこ 一両
右何れも粉にして○是
ほどに丸くして酒にて

もゆにても用へし
人の産後産前によし
惣し事虫分によし
馬にハ熱薬吉
 はなれ馬留むましない
 以下呪唄につき略
 血止の薬
足毛馬のふん
血とめの妙薬也

木曽の駒

第三師管陸軍獸醫分團編纂
木曽野駒
木曽の駒
     第三師管陸軍獸醫分團編纂
  目次
 緒言
第一 木曽馬の沿革
第二 木曽産馬現況
第三 木曽馬一般の体形、性質、著名の美
   格及失格
第四 木曽馬分布地域
第五 飼養管理の概況
第六 木曽馬市の概況
第七 木曽馬に就て将来の意見

第一 木曽馬の沿革

古来木曽と称するは福島を中心とする木曽谷の謂にして現時の西筑摩郡なり抑も木曽産馬の起源は其の年代不詳なれども往古より此事業の行われたるは古牧場中霧ケ原牧(現今神坂村湯舟澤区霧ケ原)に安閑帝の二年馬を霧ケ原牧に放ち聊々馬に乏しからずとあり又醍醐帝延喜年間霧ケ原の地に馬寮を置かれしことありと云うに依るも明なり其後壽永之暦の頃名馬を産出したること古書に散見す寛文五午年木曽谷支配代官山村良豊馬匹の体格不良なるを憂ひ其家臣を奥州南部に特派し牝馬三十頭を購求せしめ之を荻曽村薮原在郷菅村(以上現今木祖村)宮越宿原野村(以上現今義村)上田村、黒川村( 以上現今新開村)末川村西野村(以上現今開田村)三尾村黒澤村(以上現今三岳村)王滝村(以上現今の王滝村)福島宿、岩郷村(以 上現今の福島町)上松宿、小川村、荻原村(以上現今の駒ケ根村)の宿村へ配布畜養せしめたり以上の宿村を毛場と称し馬産の重なる地とせり而して贄川宿、 奈良井宿(以上現今の楢川村)奈川村(現今 の奈川村)須原宿、野尻宿、長野村、殿村(以上現今の大葉村)与川 村柿其三留野宿(以上現今の読書村)妻篭宿、蘭村(以上現今の吾 妻村)湯舟澤村、馬篭宿(以上現今の神坂村)山口村(現今の山口 村)田立村(現今の 田立村)を毛外と唱え前陳宿村の次に置けり当時馬匹の改良に注意し良馬を産出せしは左の記事に依るも推考することを得

 木曽考績貂抜粋

寛文六年五月三日建中寺にて源敬様御法事の時分良豊公へ成瀬主計殿被申候は木曽にて毎年御取立被成候毛附駒弐百御座候哉参百御座候哉其の分を不残名古屋へ被召寄其の内能馬は殿様御馬に残し残りの分は御家中馬数寄成衆へ為買候は只今御自分り百姓へ 遣はし候 代金の一倍も二倍も百姓に為取候はヽ百姓も悦可申と存候如何有之哉然は御自分御迷惑被成候儀か又は百姓痛み候儀も候はヽ格別に候と被申候處へ松井市正殿被参候に付良豊公御挨拶にも兎角共儀は市正と相談致し重て可申上と被仰候得は御尤に候て主計殿被申候由御屋敷へ御帰後市正殿へ切紙被遣候山村新右衛門御使に参り候に付御口上にも其趣被仰遣候
以手紙啓上致候然は昨日建中寺にて成瀬主計殿へ御咄被成候木曽駒の儀即刻御断り申度存候へ共何れも御入り候故貴様迄重て可申達旨挨拶仕候就夫木曽の儀は先年石川備前支配以後私祖父道勇へ御代官被仰付則ち山川材木萬事の儀備前仕候如く申付候様にと御朱印頂戴仕候毛附駒の儀も先例に任せ私祖父より親兄拙者迄四代右の通りに御座候毛附の儀は年に寄り拾五疋弐拾疋も百姓手前より買取則ち代金呉れ申し候事に候勿論悪馬の文は直に百姓へ返し候故馬主心次第相払候ものも御座候又は手前耕作の為に持候者も御座候御影にて拙者乗領取立申候儀に御座候右の趣可然様に主計殿へも御申伝可被下候委細の儀は此者口上に申合遣候以上
五月四日     山村甚兵衛    
松井市正殿
右の通り被仰遣候得は石川内蔵丞と遂内談可然様可申との御挨拶にて則ち年寄衆へも申達得は御届候間其の分に被成候様にと五月九日市正殿御屋敷へ御出事聞相済申候一馬匹取締に関する件山村支配所に於ける保護取締の方法等は不祥なれども文化文政の頃より毎年八九月乃至十月に於て支配所吏員宿村巡回し当歳牡馬の調査をなし宿村吏員及総代比とり左の如き請書を出さしむ右取締は廃藩の際迄行われたり 

 木曽考績貂抜粋

毎年八九月頃御関所番両人へ申付巡村為致役人より左の通り書附取候
一、当村御毛附駒御帳面へ相記し候通り何村何疋の外村中に壱疋も 当方無御座候若し隠置き後日相知れ候ハヽ何分の越度にも可被仰付候は勿論何方へも一切売払申間敷候事
一、今日御改めの後におばな子出来候はヽ早速御注進申上御帳面に 相記可申御事(おばな子とは検査後、秋季に産出せる者を云う) 
一、前々被仰付候通駒出来次第申候はヽ母馬の毛色共に御帳面に相 記候得共能き当歳抔は若し御百姓手前にて同毛の駒を引替候儀も可有御座候間弥入念左様成儀吟味可仕候旨仰附奉畏候事
一、病馬あやまち馬有之候はゝ御注進申上御見分を請死馬御目に懸 け其後埋め候様にと堅く被仰付候奉畏候御事          
一御毛附三歳に罷成福島へ引出不申内は内證にて売払候儀縦令持主預置候共堅く仕間敷旨被仰付奉畏候御事            
右の通り相違無御座候若相背候はゝ御吟味の上当人は不申及庄屋組頭迄何分の越度にも可被仰付候為其一札差上申候処如件
廃藩後は別に取締はなしと雖も旧慣の久しき各村とも種牡馬補充等の事は慣例に依り其の村に於ける重立ちたるものに於る協議をなし施行し明治十九年組合設立迄経過したり
一、支配所に於る馬匹検査並に馬市場開設の件年調査せし当歳を翌 年半夏前日に於る支配所(福島町)へ牽付しめ検査の上不良のものは鬣を剪り良馬は凡百五拾頭乃至二百頭を留馬と称し翌年検査期迄持主をして畜養せしむ二歳検査の翌日は前年留置きし二歳即ち三歳牝馬の検査をなし良馬拾五頭乃至弐拾頭を支配所へ徴し乗用となせり其代価は綱代(綱代の称は別記の事由より起りしものならん)と唱へ上等馬一頭に付金壱両弐分以下順次等差を附し最低弐分を与へたり其他は鬣を剪り随意売却を許せり而して寛文以後凡百余年間は売却の期日を定めず馬持の重なるもの毎年適宜の日を定め支配所より開市許可を受け回文を以て隣国に通知せり寳暦年間に至り始めて開市の期日を半夏と定め開期を三日とし前日を二歳毛付と云い(即此日前既記載の二歳を検査し良馬は鬣を剪らざるを以て毛附の称ある所以)当日(半夏の日)を三歳毛附(即ち三歳の検査当日)最終(即ち半夏の翌日)を仕舞毛 附と云えり又此三日間を総称して半夏市と云へり
此市開設中は馬政所を設置し売馬(支配所検査にて鬣を剪りたるもの)壱頭毎に鑑札を渡し市場費用支弁の為の手数料として一頭に付銀三匁つヽを徴するの規定なりし廃藩後は福島村戸長役場にて旧慣に倣い鑑札を交付し手数料を徴し開市の費に充つ(村役場取扱中は開市中の取締費用売馬手数料のみにては不足を告くるの故を以て馬匹を繋ぎたる店舗の間口の間数に応じ間口割と唱え一間に付何程として徴収せしことあり)而して売馬配列は国道に沿へ市中店舗の軒先に繋ぎたりしを以て其の混雑実に名状すべからず故に此三日間は国道往来の支障なからしむるために字山手を仮道となせり王政維新後開市日は同一なりしも馬匹検査の事なく随時に売却せしに依り自然良馬を売却せしを以て明治四五年より次第に価格騰貴し追年景気宜しきを得たりしも馬匹は遂年劣悪となるの傾あり
明治十一年旧筑摩県に於て人家櫛此の市中に於て開市を禁ぜらるや当業者より縷々請願する処あり同十三年に至り再開市の許可を得十五年に至り当業者の協議により競買の規則を設け市場改良の端緒を開き現今は西筑摩郡産馬組合事務所前に於て開催す而して開市日数は一週間に亘ることヽなれりまた初秋(九月中旬)に於て三日間中見市と唱え開市す
毛場地方は旧慣により二歳迄は牝牡共に畜養し当歳にて売却することなし雖も毛外地方に於るは当歳にて売却することあり 
前項綱代と唱えし理由は心計記に左の記事あり参照の為め記す
権現様より被云置何疋にても御用次第百姓手前より無代にて御取被成候処良豊公御代より在仝り遠方引出し候を無代にて取る事も如何然れども御免の事故代は呉る事不成相候として在より畜ひ候飼料としては少々つヽ被下候処近年は引出料余程に罷成候但し御用並に家中へ御預り馬計りに呉れ申候底馬其他百姓に取せ候馬には構い無之候
木曽の沿革は上記の如く寛文以降殆ど記すべき変遷なく慣例により前述の保護取締をなし以て王政維新に遭遇するに至りたり明治元年東山道総督岩倉公御通行の際木曽産馬の起源等を調査せられし事あり以て山村良醇より牝馬鹿毛五歳青毛四歳の二頭を献せり廃藩後は保護取締等のことなく一に民業に委したるを以て漸次良駿の産出減退するに至る明治十三年御巡幸の際福島町に於て天覧に供するの栄を得其際牝馬青毛三歳鹿毛三歳の二頭御用馬として御買上となり明治十七年本県に於て難誘の結果有志者相謀り牡馬拾壱頭種牝馬九頭を南部地方より購入する等民心漸く産馬改良に心を傾くる者あるに至る同十七年六月本県産馬共進会を福島町に開設せらる等益々改良の必要を感じ明治十九年始めて産馬組合の組織となり以て斯業の改良進歩を実現せしむるの気運に至れり爾後法令の改廃に伴い組合組織等多少の変遷ありしも持続して今日に及べり

 第二木曾産馬現況

一、馬政機関は西筑摩郡産馬組合設立前は不完全にして見るに足る ものなし西筑摩郡産馬組合の設立以来組合に於る種馬の購入愛知種馬所の設置と共に漸次改良の緒に就きたり西筑摩郡産馬組合は明治十九年に組織し愛知種馬所は同三十七年に設置せられ種牝牡馬の選定種付馬籍馬市場に関する件を監理し県及郡には畜産技師技手を置き産馬の改良蕃殖を計り特に産馬の保護奨励法として年々四五月頃郡費の補助を受け品評会を開設し馬市場は例年七月及九月の二回数日間に亘りて開催す種馬及産駒に就て左に記さん        一、種馬
種馬に二種あり一は愛知種馬所のものなり年々四月より六月の交開田、三岳、山口、木祖、駒根の五種付所に分遣し種牡馬一頭に付種牝馬六十頭内外に支配す洋種の種付料は金参円雑種は無料とす種付所より同地に分遣せられたるもの左表の如し           
   愛知種馬所分遣種馬                 
種付所  馬名  種類  毛色  年令  体尺  産地  
三岳  第四ガヅラン 内国産アングロアラブ  黒鹿  12  4.70  下総御料牧場 
山口木祖  第五アラブエ  同     鹿  11  4.87  奥羽種馬牧場 
開田  神梗  アラブ雑     青  10  5.03   同  
木祖  大舘  雑アラブ種     鹿   5  4.87  青森県大舘町 
開田  順天  アングロアラブ雑   栗  11  4.95  奥羽種馬牧場 
駒ケ根 天沼   同     鹿   8  5.08   同  
山口駒ケ根  金鳥  ハクニー種     栗   6  5.05   岩手県遠野村 
三岳  春烟   雑     同   6  5.18  岩手県宮古町 
 備考 一、年令は大正元年算               
    二、雑は雑種とす                 

其の二は西筑摩郡産馬組合所有種牡馬なり此種牡馬は各村に預託す預託料として一頭に付一ケ年金拾五円乃至参拾円を徴収す預託者は例年四月より六月の頃各村に設置する種付所に於て八十頭以内初年のものは五十頭の種牝馬に種付す預託者は受胎馬一頭に対し種付料として金参円を徴収す現在福島産馬組合所有の種牡馬は総数三十八頭にして左表の如し    
  産馬組合所有種牡馬名表                
馬名   種 類  毛色 年令  体尺   産地
清盛   一回雑  鹿   9  4.65   青森県七戸
勝露    同   栗   10  4.80   北海道八雲牧場
青森   二回雑  鹿   9  5.05   青森県三戸
小芳   一回雑  栗   8  4.85   岩手県岩手町
萬    二回雑  黒鹿  7  4.70   岩手県玉山
東郷   一回雑  鹿   8  4.85   青森県七戸
横浜    雑   栗   5  4.80   不   明
国一    同   青   5  4.80   青森県田名部

槁立    和   鹿   16  4.70   青森県七戸
紅梅    同   青   13  4.65   同   県
電     同   同   13  4.50   西筑摩郡奈川村
富士    同   鹿   11  4.67   青 森 県
桜山   退却雑  同   10  4.85   同
八甲    和   青   8  4.70   同県 七戸
荒浪   退却雑  鹿   8  4.75   同
千鶴    和   青   8  4.75   同
千山    同   栗   12  4.55   同県田名部
松島   退却雑  鹿   9  4.60   西筑摩郡  
城山    和   青   11  4.55   青森県上北郡
金龍    同   鹿   11  4.70   同県 七戸
玉盛   二回雑  同   9  5.00   岩手県玉山

滝盛   一回雑  鹿   8  4.95   岩手県滝澤
北盛    同   栗   9  4.85   北 海 道
武俊   退却雑  栗   10  4.55   西筑摩郡奈川村
天龍    雑   黒鹿  8  4.80   青森県上北郡
津軽    同   青   5  4.60   同県下北郡
旭山    同   鹿   5  4.85   栃 木 県
小山    同   栗   5  4.70   西筑摩郡山口村
富壽    同   鹿   6  4.80   青森県七戸
千秋    同   同   14  4.65   同   県
松緑    同   青   12  4.60   西筑摩郡王滝村
豊川   退却雑  鹿   6  4.75   青森県上北郡
嶽雲   一回雑  同   5  4.90   同
鈴玉    雑   栗   4  4.60   同県 七戸
松月    洋   黒鹿  6  5.00   岩手県岩手郡
浅間    雑   鹿   4  4.70   青森県田名部
神坂    同   同   4  4.60   西筑摩郡神坂村
旭     同   栗   4  4.60   北 海 道
従来此地方に使用せられたる種牝馬は種馬所々有のものも又産馬組合所有のものも体尺比較的低きもの及アラブ系統のものを選べるものの如し蓋し木曾馬種牝馬の体格に応じ適当の処置ならん

  種牝馬

種牝馬の数は現在総数六千余頭就中其の数多きは毛場と称する開田、三岳、王滝、駒ケ根、新開の地方併奈川及木祖村なり是等の地方に於る一人にして多きは二三十頭以上を養う例外として四百頭余を所有するものあり(福島町に一名あるのみ)

    産駒                  

種牝牡馬検査の施行せらるゝに至るや産駒の数漸次減少し十年前に比すれば約五六百頭を減ぜりと云う蓋し十年前種牝牡馬の検査を行はざる時代に於ては各人自由に交配生産せし為従て馬格も劣等なるもの多かりき現今に於ては種牝牡馬を選定し概ね隔年に種付するにより馬格も次第に向上し一年の生産数千八百頭乃至二千頭なり生産牝牡の数は年によりて多少の相違あれども概して牝は牡より稍々多きが如し出生時の体尺は種馬所のもの2.70乃至3.00尺組合所有のもの(2.00乃至2.60尺にして毛色は鹿毛を最多として栗毛、青毛、之れ に次ぐ
馬の病に罹ることの甚だ少し開業獣医は開田及新開に各一名此外仮免状所有者三名あり最近数年間に於ける福島に於ける産馬組合の種牝牡馬産駒数併に却数及価格等は左表の如し
   種牝牡馬産駒数併売却頭数及価格表
年次 種牡馬数 種牝馬数 産駒頭数 売却頭数 平均一頭の売価明治19年   48    4491   1263   1652    6758
 40   55    6194   1496   1663   40597
 41   62    6174   1680   1608   42688
 42   51    6153   1552   1425   45130
 43   43    6370   1787   1404   39388
 44   40    6435   1877   1451   43020

   第三木曾馬一般の体形性質能力著明の美格及失格

一体形 木曾馬一般の体形は体格矮小中躯過長四肢短小なる小型種の馬にして尚馬体各部に就て述ぶれば次の如し         
頭は概ね直頭にして額広く間々軽き庫頭のものを見る眼は中等の大さを有し晴朗にして其の直頭と共に一見其性質温順且つ愛らしき馬相を呈す眼盂は陥凹の度極めて少く二十歳以上の老馬と雖も陥没をなすもの少なく一見新馬の如き観を呈するもの多し耳は梢々細長にして直立せざるもの多し鬣は牡は極めて長く眼を被い牝は中等の長さを有す項は長くして広く且つ多肉なり頚は一般に長く其方向は水牛に近きも其の厚さの幅は大にして多肉其の上縁は凸弯し牡は鬣床に多量の脂肪を堆積し往々一側に傾斜するを見る鬣は其の質粗剛密生して極めて長く茫々として頚側を被ふもの多し頚の付着は概して良好なり鬣甲は低くして厚く多くは顕著なる限界を見ずして緩なる傾斜を以て背に移る背は一般に長きも多肉にして棘上突起の凸陸を明視し得るもの少し又老齢に至るも凹背を見ること少し肩は甚だ峻立し適度の傾斜を有するものなし肋は方円にして平肋のもの稀なり腰は長くして狭き傾きあり肩の峻立、長背と相待って中躯過長の特性を示す尻は概ね斜尻を有し長さ及幅共に短 く此部割合に筋肉発育せず四肢一見短小なるが如きも是中躯過長の為に斯く見ゆるならん其長さ胸の深きより短きものなし(別表参照)而して四肢各関節の発育亦適度なり蹄は一般に小にして其の形可良其の質堅く変形蹄を見ず毛色は鹿毛栗毛最も多く青毛之れに次ぐ河原毛及其の他の異毛は極めて少なし躰尺は四尺二寸乃至四寸のもの最も多く種牡馬(純木曽種)と雖四尺七寸を超ゆるものなく種牝馬は四尺五寸を大なるものと称せり今木曽馬中比較的体格良好と認むるもの十頭に就て検測したるもの左の如し
検査番号  性  毛色  年令  体尺  体長   前躯  中躯  後躯 胸ノ深サ  肢ノ長サ
壱  牝 鹿  6  4.40 4.45 1.00 2.20 1.25 1.85  2.15
弐  同 青 16  4.10 4.45 1.20 2.10 1.15 1.90  2.10
参  同 青 20以上 4.00 4.35 1.05 1.90 1.40 1.80  1.85
四  同 鹿 20以上 4.05 4.25 1.05 1.80 1.40 1.85  1.90
五  同 鹿  6  4.45 4.65 1.20 2.20 1.25 2.00  2.15
六  同 栗 20以上 4.30 4.65 1.10 2.30 1.25 1.90  2.20
七  同 黒鹿  4  4.45 4.55 1.05 2.05 1.45 1.95  2.20
八  同 青 20以上 4.30 4.50 1.10 2.10 1.30 2.00  2.05
九  同 鹿 15  4.20 4.40 1.05 1.85 1.50 1.90  2.15
壱〇  同 鹿 20以上 4.20 4.50 0.90 2.10 1.50 1.85  2.10
平均  同      4.25 4.48 1.07 2.06 1.35 1.90  2.09
   純木曽馬と称する種牡馬の馬体各部の検測の結果左の如し
体尺  体長  前躯  中躯  後躯 前膊ノ長サ 管ノ長サ 胸深  頚ノ長 頭ノ長サ 胸幅  尻幅
4.55 4.65 1.30 1.80 1.55 1.20 1.00 2.20 1.75 1.65 1.30 1.65   

 性質

木曽馬の性質に就ては従来の著書に概ね其の性質柔順ならずとあり又一方吾人が岐阜、愛 知、両県に於て見る木曽馬は何れも其の性質獰悪にして制御極めて困難なるを以て木曽馬 は先天的に此悪性を有するものと想像せしに足る一たび其の生産地を踏み其の馬を見るや従来吾人の脳裡に印せし木曽馬とは全然別紙の如く極めて温順なるに一驚せざるを得ず今其の性質の如何に温良にして柔順たるかは左の記事によりて自ら会得するを得べし今福島市場へ集合せる馬群の状況を見るに之が牽引者の三分の一は婦女子なるは一奇観と云ふべし而して牽引さるヽ馬は極めて静粛に市場に来集し肩々尾々相摩するも市場内毫も騒擾するなし次に市場開設期間中繋留すべき場所は概ね方二間の馬欄内少なくも四五頭多きは八、九頭を入れ馬は凡て放馬となし欄内は馬を以て充され甲村の馬と乙丙丁村の馬と相混在 するに拘らず極めて静粛にして争闘するなし能く人に■み吾人突然接近して体尺等の検測をなすも敢て驚くことなし生産地に於ける木曾馬は性質以上の如し以て生産地に於て馬を取扱ふの懇切なるを想像すべし然るに之が使役地なる岐阜愛知両県に於て其の性質極端の反対を来たす所以のものは全く使役者の残忍酷簿を表明する照魔鏡と見るを得んか
 
 能力

由来木曾の地は生産地にして使役地にあらず故に此の地方にて真の能力を調査する能はざるの遺憾あり今左に使役地に於ける状況を述ぶべし木曽の山地地方に賞用せらるヽは山地の作業労作に巧なるが為なり岐阜愛知両県下に於ては専ら二歳駒を購買し之を育成して使役に供す日々三百貫匁余を積載したる車輌を挽きて六、七里を行き老馬は(二十歳前後のもの) 専ら山梨県巨摩郡地方へ売却せられ尚ほ四、五年間約四十貫(米二俵)を駄載して山 坂を運搬すと云う又西筑摩郡一円は其の地域高原に位し温度低く盛夏と雖も八十度を上らず冬季は積雪少きも四、五寸多きは三尺以上に及ぶ従て気候寒冷なるを以て此地方に生育 したる馬は能く寒気に耐ゆる美点を有し使役地に於ても又感冒・可答児等に罹るもの少しと云ふ然れども暑気には稍々弱き管りと云ふ又木曽馬は皮膚強健にして能く寒気に耐ふる抵抗力強きのみならず夏季蚊虻の害を受くること少し木曽の馬は常に殆んど野草のみを以て飼はる能く粗食に耐ゆるの美点あり尚能力に関して他日木曽馬に就き実地試験を行ひ其の成績を記述すべし

   著明の美格及失格 

美格としては直頭愛すべき眼と骨格の堅牢背の多肉にして輓駄に好適なると蹄の性質堅硬なるにあり著明の失格は体尺の過低中躯の過長後躯全般の発育不良尻の長さ及幅共に短くして斜尻なるにあり 

 第四、木曽馬分布地域(木曽馬の販路)

木曾谷は由来産駒の使役地にあらざるを以て年々増殖せられたる幼駒は殆んど挙げて販出せられ販路の主なるは同県に在りては上伊那、下伊那、南安曇、北安曇、東筑摩の諸郡にして其の数も亦最多に在り次て美濃、三河、尾張にして遠江、飛騨、甲斐に於ける需要も少なからず是等の地方は地勢木曾に類似して飼養併に使役上便多きを以てならん而して下伊那郡地方は牝馬を好み甲斐地方は殊に巨摩郡には老齢馬の販出多し之を以て見るに木曾馬の分布地域は長野県、岐阜県、愛知県を主とし静岡県山梨県の山岳地に及ぶものと認む其の用途は主に駄用併に農耕用にして地勢稍々平坦の地方にありては輓用に供せらるも木曾谷外の地に於ては蕃殖用に供すること殆んどなし

    第五、飼養管理の概況 

木曾馬の飼養は半牧半舎飼なり放牧期間は概ね春分より立冬の間にして此中農繁の期のみは放牧馬の内若干頭を残して厩内に繋畜し農用に供す放牧地は特に牧場として設備したる処なり概ね近傍の林野なり維新前にありては官有民有を問わず何れの地にても放牧し得たれども維新以後官有地の御料地となりし以来民有地の外放牧するを得ず従て地域狭隘となり飼料の不足を来すと共に漸次草の発生不良となれり現今に於ける放牧地は西筑摩郡に在りては開田(西野、末川の二部落より成る)を主とす駒ケ嶽の林廉に於ても若干放牧地あ れども開田村に比すれば狭小にして地味亦不良なり放牧地の草はかや、かりやす、よし及葛等にしてかや、かりやすは主たる飼料なり厩舎は一農家概ね一棟を有す之れに一、二頭乃至七、八頭を混容せり舎飼中の飼料は専ら秋夏の頃に於て刈り取りたる干草のみとす但し農 用に使用するときは特に豆稗等を與ふ(何れも煮熟したるもの)水與は一日五回以上にして飼槽中に汲入れ之れに干草を加え適宜吸飲せしむ其の他一切濃厚飼料を與ず丁重に貯蔵せる葛葉を冬期間唯一の滋養食として之をかや、かりやす等に混入す以て飼料の一般に不良 なるを想見し得べし況んや維新後官有地の放牧を禁せられたる以来飼料不足を告げ此等粗剛の干草すら充分に貯蔵することを得ず為めに放牧以前に於て往々餓死せしむるものありと云う 手入は終歳全く之を施さず只時々竹箒等を以て皮膚の汚垢を払うに過ぎず蹄の如 きも其の侭放任し端蹄廻等を行なうことなしと云う

  木曾馬市の概況 

木曾の馬市は霊元天皇寛文七年に始まる其の間多少の盛衰るも連綿として今日に至る現今市場の設備は常設厩舎仮設厩舎及売店より成る常設厩舎は粗造な木造厩舎なるも充分雨露を凌ぐ に足り方約二三間のもの多し此中に数頭乃至十数頭を容る仮厩舎は分房厩にして 菰筵■等を以て簡単なる屋根を造る而して売店にす各五六厩舎を附属す故に売店の数は売却馬数の多き程増加する訳なり 
入口は二ヶ所ありて茲に入場馬検査所を置き伝染性の疾病を有する馬は入場を禁止す健康馬は検査の証明を與え之を各売店の厩に牽入る売方の方法は競買にあらずして任意売買なり則買人は各厩舎に就て自己の好めるものあるときは其の持主なる売店員と適宜に売買の契約を為すなり産馬組合は売買の出来高に応じ若干の手数料を徴し組合費に充つ売買は其の時限りにして将来如何なる事故あるも責任を有せず
明治十九年組合設置以来の調査に係わる産駒及売買数左の如し
  自明治十九年至仝四十四年木曽馬産駒及売買頭数調
年次  産馬頭数  売馬頭数  売馬価額 平均一頭の価格
明治19  1263    1652   11163.750   6.758
  20  1436    1267   16165.900   12.759
  21  1249    1225   19931.550   16.270
  22  1469    1187   15671.750   13.203
  23  1626    1333   18054.500   13.544
  24  1621    1628   22702.770   13.945
  25  1664     1565   27008.320   17.258
  26  1629    1568   27830.840   17.758
  27  1567    1763   33369.530   18.928
  28  1592    1676   38803.450   23.152
  29  1606    1925   52841.000   27.450
  30  1652    1995   55937.550   28.039
  31  1876    1764   51438.450   29.160
  32  1515    1580   50068.500   31.689
  33  1645    1928   66927.500   31.713
  34  1772    1917   55181.000   28.785
  35  1679    2052   54826.700   26.719
  36  1624    1928   55936.850   29.013
  37  1604    1829   47807.900   26.139
  38  1492    1822   46857.350   25.718
  39  1475    1760   55666.500   31.629
  40  1496    1663   67512.700   40.597

  41  1680    1608   68642.250   42.688
  42  1552    1425   64310.250   45.130
  43  1787    1404   55301.500   39.388
  44  1877    1451   62421.750   43.020

   第七木曽馬に就て将来の意見

木曽馬の産地たる西筑摩郡は中央に木曽川南北に縦貫し同郡殆ど山脈重畳土地磽角にして平地に乏しく山林原野の面積五万町歩を有し樹林欝生せるは僅かに其の十分の一(五千町歩)に過ぎず残り四万五千町歩は生草繁茂せる草地とす此外本郡の面積は耕作地四千町歩(田二千町歩畑二千町歩)雑地(宅地其の他)二千町歩のみなり故に本郡の大部分は草地とす此多大なる草地は概して土地急峻不齋加ふるに磽角之を耕作して美田となし葉園となすは迚も人力の為すべき限りにあらず将来とも草地は多少植林せらるゝことあるも草地として存在するもの蓋し多かるべく草は殆んど無尽蔵なり木曾の地は是れ山間僻地陬の地鉄道の開通せざる往昔にありては農民は適当の肥料を得るの途なく生草繁茂無限の緑肥は目前に充満するも是れ素より遅効肥料たり加ふるに海抜高き此の寒冷の地に於ては到底之を以て満足なる農業を営む能はず茲に於てか農民は堆積肥料を得んとし競ふて馬を養い幾千百の星霜を経て今日に至りたるや明かなり木曾の民馬を養うの目的は肥料を得るを主とし仔馬を得るを副とす換言せば馬の大小の如きは毫も顧慮する所なく否寧に多数小馬を飼ふ方却て肥料製造の目的に副えるものゝ如し木曾の民は金肥を用いるもの稀なり将来と雖も此無尽蔵の緑肥を利用するを得策とし故に馬の蕃殖は必要上衰退することならん然りと雖も軍国に要求する馬に之を改良せんとするは左の理由に拠り望少きが如し
一、堆肥製造の原動力たる馬を養う緑草を刈り之を馬背に積み自家に持帰るものは直接田 畑耕耘するの労力なき老幼婦女のみなり今馬の体格を増大せしめば此等繊弱なる者にては馬を扱い兼ねるに至るべし
二、木曾馬は体躯矮少体質強健の二点を以て古来其の販路を独占し以て福島市場の声名を 博す今此小型を改良して大馬となすは顧客の意志に反す毎年馬市に於て偶々大馬の出づるあるも常に買手なきを以て知るべし
三、西筑摩郡の如き山岳起伏の地に於て大なる馬は仮りに生産し得るも之を育成すること 不可能なり又地勢上到底其の体形を保持する能わず然りと雖も木曾の馬六千頭悉く四尺二三寸の小馬にして軍国の必要に応ぜざるものなしと云うは国家の謀あらず蓋し木曾馬
は素と南部馬の移植に係り保護の荏苒遂に退化して今日の木曾馬となれるものなり今少しく之が保護奨励に努力せば四尺六、七寸に其の体尺を伸さしむるは蓋し容易の業なるべし 此体尺に伸張せしめ木曾馬特有の能力たる山坂上の作業に巧みなること体格強健にして比較的輓駄馬に適すること及び寒気粗食に耐ゆる美点を保たしめば山砲兵機関銃駄馬其の他小行李用として最適なるものと認む将来木曾は此役種馬の産地として奨励し陸軍に於ては木曾馬に限り軍馬管理規則に要求する体尺を下げて四尺五、六寸とし発育の見込ある馬を 購買し其の用途に応じて使役せしむる至れば独り木曾民の幸福のみならず漸次六千余頭の馬を陸軍の用に導くの端緒なりと信ず 

木曽馬とともに

『木曽馬とともに』伊藤正起 平成十二年二刷 開田村発行
・木曽馬の起源 弥生から古墳時代に朝鮮半島から導入されたタルバン系高原馬の血統の馬。
・木曽馬の成立 『和漢三才図会』に「安閑天皇二年(五三二)、馬を科野国望月牧霧原 牧に放ちいささか馬に乏しからず」とある。霧原牧は旧木曽神坂湯舟沢と考えられている。・木曽馬の病気 腺疫(ナイラ)予防の血清注射なし。漢方薬で治療。被害は少ない。破傷 風、日本脳炎がわずかに出た。寒冷による消化不良・疝痛を「凍み腹」と称した。伝染性貧 血は大正末から昭和初期に流行し、昭和四年に伝染性貧血常在地として検査指定地域とな る。
・馬の弔い 各集落毎に馬頭観音が建てられ馬の埋葬場所が決められていた。警察官立合 で八人から十人で運び丁重に埋葬し、弔いをした。

山口県獣医会規約

  山口県獣医会規約
   明治廿四年
   四月廿二日筆記ス

 山口県獣医会規約

 第一章  総則

 第一條 本会ハ山口県獣医会ト称ス
 第二條 本会ハ吉敷郡山口ニ設置ス
     当分ノ内吉敷郡吉敷村中村資一方ニ
     設ク
 第三條 此規約ハ県庁ノ認可ヲ得テ履行スルモノナ
     レハ自今改正追加ヲ要スル事項在ル時ハ亦此
     手続ヲナス可シ

 第二章 目的

 第四條 本会ハ県内居住ノ獣医団結シテ其学術治療
     ノ進歩改良及人畜衛生ノ普及を図ルカ為メニ設
     クルモノトス

 第三章 会員

 第五條 会員ハ本県居住ノ獣医ヲ以テ組織ス
     但シ斯道ニ熱心ナルモノハ会員二名以上ノ諾介ニヨリ
     準会員タル事ヲ得ル 
 第六條 本会ノ旨義ヲ翼讃シ本会ニ裨益アルモノハ之
     ヲ推撰シテ特別会員トナス事アル可シ
 第七條 会員タラント欲スルモノハ幹事ニ通知シ会員簿ニ記名捺
     印シ此規約ヲ団守ス可シ
 第八條 本会ノ名誉ヲ毀損シ若クハ数々此規約ニ
     背戻スルモノハ協議ノ上之レヲ退会セシム
 第九條 会員中転居或ハ一ケ月以上ノ旅行ヲナス時ハ直ニ本
     会ニ通知ス可シ
 第十條 退会セントスルモノハ其事由ヲ詳記シ之レヲ幹事ニ請求
     スベシ
     但此場合ニ於テハ幹事ハ其件可否ヲ会議ニ諮ル
     モノトス
 第十一條 正当ノ事由ナクシテ退会スルヲ得ス

 第四章 集会

 第十二條 集会ヲ分ツテ総集会及部会ノ二種トナス総集会ハ総
      会員ヲ以テ組織シ部会員ヲ以テ組織ス
 第十三條 総集会ハ一ケ年一回部会ハ一ケ年四回開会スルモ
      ノトス
      但シ開会期日ハ総集会ニ在リテハ之レヲ県庁ニ
      部会ニ在リテハ之ヲ所轄郡役所ニ予メ報告スルモノ
      トス
 第十四條 不得止事故アリテ集会ニ欠席セントスルモノハ予メ之レヲ届
      出ヘシ
 第十五條 各部会ニ於テ決シ難キ事項ハ之レヲ総集会ニ提
      出ス可シ 
 第十六條 前条ノ他会員三名以上ノ請求アル時ハ部会
      ヲ十五名以上若クハ二部会以上ノ請求アル時ハ総
      集会ヲ臨時ニ開会スルヲ得
 第十七條 総集会及部会ニ於テ左事項ヲ講気討議ス
     一、獣医奥義ヲ改良スル事
     二、獣医術ニ関スル内外ノ新説治験及各自ノ実
       験其他総テ家畜ノ治療衛生ニ関之諸件
     三、屠畜場搾乳ノ臨検管理及家畜伝
       染病ノ如キ総テ家畜ノ公衆衛生ニ関係タ及之諸件
     四、風土病伝染病ノ原因探求及其ノ予防法治
       療法ニ係カル事件
     五、牧畜事業に関スル学術実験等総テ
       畜産ノ繁殖改良ニ係カハル諸件
 第十八條 県庁及郡役所ヨリノ諮詢及会員中ヨリ
      提出ノ問題ハ勿論総テ前条ニ記載スル事項
      ハ会員外ノ質問ニ係ルモノト雖モ討究論議
      スベシ

 第五章 役員

 第十九條  本会ニハ左ノ役員ヲ置ク
    会長   一名
    幹事   一名
    書記   一名
 第二十條  役員ハ投票ヲ以テ之レヲ定ム但書記ハ会
       長ノ特撰トス
 第二十一條 会長ハ一切ノ事務ヲ総轄シ議事アリテハ之
       レカ議長トナル
       但シ特別会員アル時ハ之レヲ推挙シテ議長職務ヲ
       執ラシム
 第二十二條 幹事ハ会長ノ助ケ一切ノ事務ヲ処理シ○○ヒ
       会計事務ヲ担任ス会長事故アル時ハ之
       レカ代理タルヲ得ル
 第二十三條 書記ハ議事筆記及雑務ヲ担任ス 
 第二十四條 役員ノ任期ハ二年トス但薦再撰スルモ妨ナシ

 第六章 積立金及会費
 
 第二十五條 会員タラントスルモノハ其身分ヲ保証スル為メ入会ノ際
       金三円ヲ積立爾后年々壱円弐拾銭宛総額弐
       拾円ニ満ルマテ積立ヘシ但シ積立金ハ各部会於
       テ之レヲ保管ス
 第二十六條 積立金ハ貯金トナシ増殖ヲ計ル可シ
 第二十七條 積立金ハ退会又ハ死亡ノ際ハ之レヲ返付ス可シ
       但シ第八条及第十一条ニ該当スルモノハ返付セサルモノトスル
 第二十八條 会員ハ出席ノ有無ヲ問ハス毎回金拾銭宛ヲ
       支出シ会費ニ充ツヘシ
 第二十九條 費用ノ収支決算次年ノ総集会ニ於テ之レヲ報
       告スルモノトス
 第三十條  特別会員ハ積金ヲナシ及会費ヲ支出スルヲ要セス

 第七章   準会員

 第三十一條 準会員ハ特ニ設ケタル条項ノ外本規約ニ服従ス
       ルノ義務アリトス但シ積立金ヲナスヲ要セス
 第三十二條 準会員ハ会員同等ノ権利ヲ有スト雖モ選挙
       権及被選挙権を有セス又議決ノ数ニ入ルヲ得ス
 第三十三條 本会中ニ左ノ部会ヲ置ク
      第一部会 (大島郡玖珂郡熊毛郡)
      第二部会 (都膿郡佐波郡)
      第三部会 (吉敷郡美祢郡阿武郡)
      第四部会 (厚狭郡)
      第五部会(豊浦郡大津郡赤間関市)
 第三十四條 各部会ニ部長一名ヲ置キ一切ノ事務
       ヲ処理セシム
       選挙ハ第二十條第二十四條ノ例ニ拠リ選定
       ノ上ハ之レヲ本会ニ報告スベシ
 第三十五條 各部会ニ於テ此規約ニ本キ更ラニ周密
       規約ヲ設クルヲ得ルヲ得ル但シ此場合ニ於テ
       本会会長ヲ経テ第三條ノ手続ヲナスヘシ
 第三十六條 各部会ニ於テ協議むし毎月金拾銭以下
       ノ会費ヲ各員ヨリ徴収スルヲ得ル
 第九章 雑則

 第三十七條 部会ノ開会時日出席人名及議事
       提要ハ其都度之レヲ郡役所及本会報
       告スルモノトス
 第三十八條 総集会ノ開会時日出席人名及議事
       提要並ニ各部会ノ概況ハ毎年一回之レヲ県庁ニ
       報告スルモノトス

 第十章 謝儀規定

 第三十九條 薬価及手術料等ハ左ノ規定ニ拠ルベシ
      一、馬灸料     一ケ年極メ
        此ハ郡村ノ習慣ニ由リ米三升乃至五升
        若クハ金十五銭乃至四十銭ノ範囲内ヲ
        以テ相定ムルモノトス
       薬価
        但シ牛馬ハ左表ノ金額羊豚及山羊
        ハ三分ノ二犬猫ハ二分ノ一家兎及家
        禽ハ三分ノ一トス 
   内服薬    一日量     拾弐銭
   頓服薬    一回量     拾銭以上弐拾銭以下
   点眼水    拾五瓦ニ付   三銭以上拾銭以下
   外用水剤   二百瓦ニ付   五銭以上拾五銭以下
   膏薬     三十瓦ニ付   五銭以上拾銭以下
   油剤及擦剤  百瓦ニ付    拾銭以上弐拾銭以下
   皮下注射薬  一回量     拾五銭以上弐拾銭以下
   吸入薬    一日量     拾銭以上弐十五銭以下
   潅腸薬    一回量     五銭以上弐拾銭以下
  
  一外科手術  
    特別手術    三拾銭以上壱円以下
    産科手術    五拾銭以上三円以下
  
  一薬剤入器具及編帯ガーゼ等原価の二
  一往診料診察料及小手術等ハ道路ノ遠
   近手術難易ニヨリ応分ノ謝儀ヲ受クベシ
  一診断書調製料ハ金五銭トス

2009年3月26日木曜日

書名と刊記

書名と刊記
書誌学では書名を採る順は次のように決められている.
①巻頭書名 書の本文冒頭にある書名で,一般に書名と呼ぶ時はこの巻頭書名を言う.巻頭書名が同じ書が複数ある場合は,判別のために編者,版元,序文著者等の特徴を記す必要がある.
②序文の書名 刊頭書名の無い書の時は,序文に書名が記されていればこの書名を,また序文が無く,本文中に書名が記されている場合はこれを書名として採用する.
③版芯書名巻頭書名も本文中にも書名が無い場合は丁の中心・版芯に印刷された書名を採用するが,版芯の書名は略名が記されている事が多い.
④外題書名 巻頭書名,序文書名,版芯書名のいずれも無い時は,表紙の外題か,背の外題を採る.外題を題箋に記して貼り付けらている時は題箋書名と呼ぶこともある.
 今,『馬経大全』と呼ぶ書の多くは,和刻・寶善堂梓・馬師問編・西村載文堂版『新刻参補針医馬経大全』であるが,浅野文庫蔵本・伝朝鮮渡来本.寶善堂梓.馬師問編・白文『新刻参補針医馬経大全』や,版元の異なる和刻本がある.また,序文のある『元亨療馬集』の外題書名,一部の書写・版本『元亨療馬集』の版芯書名には『馬経大全』と記されたものがある.浅野文庫蔵本の『新刻参補針医馬経大全』の版芯書名も『馬経大全』である.
 書誌学では,刊記は書の著編者の氏名,出版年月日,出版元,出版地が正確に記されたものを採用する.一般に刊記は書の巻末にあり,奥書とも呼ばれる.奥書に刊記が無い場合は本文中から,本文中にも刊記が無い場合は序文の刊年月日を刊記とする.序文も無い場合は本文の内容や所持者の書き込み,体裁・装丁等から刊年を推定する.
 先の『元亨療馬集』の場合,丁・許序本は序文の刊記を以て刊年とする.従って丁序本は明刊,許序本は清刊となる.

参考書 長沢規矩也著『和漢古書目録記述法』,山岸徳平著『書誌学序説』,陳国慶著 沢谷昭次訳 『漢籍版本入門』1984年 研文出版

有隣堂・震災後の消息

有隣堂震災後の消息
東京市外下渋谷三八六番地落合弥三方有隣堂・穴山篤太郎 一同無事に付き憚りながら御安意願い上げ候取敢えず前記の場所に仮寓し鋭意開店の準備に努力致し居り候.
その他の消息
市外渋谷 陸軍獣医学校高等官一同・陸軍獣医団 当校は建物器具類の破損は相当に有り候へ共,幸いに火災を免れ,人馬に異常之無く候
市外駒場 中央獣医会 同会印刷所全焼の厄に遭ふ
市外下渋谷 牛乳タイムス社 本社は幸ひ災害を免れ・・・
東京市外目黒 日本獣医学校 本校も予定の如く九月十一日より授業を開始する能ず・・
・二週間だけ臨時休業・・・
東京地方に続いて神奈川県地方,千葉県地方の誌友消息がある.関東大震災は九月一日午前十一時五十八分四十四秒に第一震,東京地方では十六秒後に出火,四十一万一千三十五戸が焼失.農商務省や畜産局も全焼した.
「現代の獣医」第九巻弟四号・震災号.現代の獣医社発行より

2009年3月23日月曜日

ザブについて

ザブについて
中山英一著『被差別部落の暮らしから』朝日選書606.朝日新聞社発行2000年11月第5刷
 長野県の部落の人たちは部落外の人を『一般』『一般の人』『百姓』『ザブ』『シュク』と呼んでいた.
 食べ物については「兎の肉」「ナカモノ」「モツ」「スジ」「サクラ」「オタンポ」があった.「オタンポ」とは「落ち馬」で,明治の始め頃まで部落には斃牛馬の処理権があった.斃牛馬は駐在巡査立会いで,馬捨て場で石油をかけて焼却するように定められていたが,実際は解体されて,皮革,食べ物として利用されていた.立会いの巡査は火をつけるまねをすると駐在所に帰った.その日の夜には新聞紙に包んだ一貫目ほどの肉が駐在所の勝手口に置いてあった.