明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年12月22日火曜日



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牛科撮要 全

牛科撮要 全
摂陽之野人・桃林子 1720年
丁子屋九良右衛門版

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斉民要術巻第六・養畜


斉民要術巻第六・第五十七は養牛馬驢騾である.内容は相畜と療治方で,極めて簡潔に記されている.「牛腹張りて死なんとするを治すに婦人の陰毛を取りて云々」とあり,多くの牛療治版本の元になっている事を示す.『周礼』の六畜では牛・馬・羊豚・犬・鶏となるが,斉民要術では犬を除き,鵝鴨と魚が加わる.残りの部分の画像はウエブアルバムにある.

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2009年12月16日水曜日

日本馬政史・有史以前の馬

日本馬政史では,有史以前の馬骨が尾張の国熱田の貝塚(鳥居説),鹿児島県出水貝塚(長谷部説)から出土した事を根拠としている.熱田の貝塚から出土した骨には二十五本の刻み目があるとして,写真入りで報告され,後の考古学者の興味をひいたが,写真を一見すれば,このような刻み目を刻むには鋼の鋸が必要な事は,素人目にも明らかである.更にこの報告には骨の長さから想定出きる馬体高が添えられている.体高は西南諸島系の小型馬で,後に主流となる蒙古系よりも小さい種類である.このように小型の馬が何故列島に存在したか・・・船を曳く馬もありそうである.

2009年12月11日金曜日

天然記念物・萩市の見島牛の起原に関する報告

「日本古代家畜史の研究」芝田清吾.1969年.学術書出版会.第Ⅴ章 牛 では宝島牛,与那国牛に近く,口之島牛,朝鮮牛がこれに次ぐとする.これまでの研究では各地の貝塚から出土した牛馬の骨・歯を縄文期のものとする判断に拘泥して,朝鮮南下説を採るが,家畜のウシ・ウマ・イヌは南方から島伝いに列島に来た動物である.かつて琉球国と呼ばれた西南諸島には『クリブニ』『サバニ』と呼ぶ小型の漁船から,『ヤンバルブニ』と称する大型帆船,さらに外国航路用の馬艦船『マーラーシン』とこれに付属する「天馬船」まで造られて,環太平洋の各地に通航していた.西南諸島から航路は南風を受けて北に向け出帆すれば,黒潮に乗って必ず薩摩に至る.更にそのまま北上すれば朝鮮半島の南部に着く.九州に上陸が目的なら長崎・佐賀或は博多で,列島本州が目的なら山口県の北浦海岸,出雲半島,若狭湾,能登半島で,これに失敗すると見島や佐渡若しくは津軽へ漂着となる.太平洋側の潮なら日向灘を通る途があり,この航路は瀬戸内海を通って難波へと通じている.更に四国を過ぎて紀伊水道から至る途もある.海洋民にとって陸は舟で越せない厄介な所で,潮と太陽と星と鳥があれば何処にでも自在に行けるのである.

2009年12月10日木曜日

天然記念物・見島牛の起原に関する学術論文

天然記念物見島牛の起原に関する研究 岸浩 

「獣医畜産新報 」

1975 No.652 1216~1228

1975 No.653 1259~1269

1980 No.712 673~679

1980 No.713 733~739

1981 No.725 731~743

以上は師匠の遺品である.別刷りは製本し昭和六十一年六月十九日に署名を給わっている.見島の牛を学ぶ者は一読すべき論文である.

2009年12月4日金曜日

日本在来牛馬とは何か?

三国誌の記述に従うなら,倭の国には牛馬はいない.北方の半島より渡来したものとすれば,それは外来である.新種外来の前に在来種があったとすると,それは三国誌や他の記録に記されているはずである.北方系馬の舶来があったことは古墳出土馬具からも明らかにされるが,実は北方系モンゴル馬で無い馬も存在するのである.しかも,この馬は,コマともマともメとも呼ばれず,最初からウマ・ヌマと呼ばれている.(琉球語)これらのウマの祖先を辿ると,それは南方のポリネシアに源を発している.列島に舶来した馬はポリネシアのウマと北方のコマの二系があったのである.牛の場合は更に端的で,琉球語のウシ以外には列島にはこの動物を形容する倭詞がない.日本海の島々に在来種と言われるウシが残されているが,これらはウシであってギュウではない.山口県萩市の沖の見島種が黒毛和種の祖先で朝鮮渡来と言われているが,真相は定かではない.考えてみれば,半島から荷物を運搬する際は壱岐・対馬経由で博多か関門に至る経路が最短で安全な路である.見島に和牛の祖先となる牛を運ぶ必要は全く無い.何故にこの島に大陸の相牛方に無い牛が存在するのであろうか?文書歴史学者は古文書に無いものは判らないと言うが,漢字よりも牛の誕生の方が古いはずである.