明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2012年8月30日木曜日

2012年8月24日金曜日

山口県下士族と平民の沿革

長州藩の階級区分として 華族・国主,御末家.士族・御一門,家老,寄組,八組,遠近,無給,御徒歩,三十人,陪臣.平民・町人百姓,茶煎非人穢多がある.この階級区分は明治元年の版籍奉還時に諸士は士族,足軽その他組の者は卒族,百姓町人は平民となるが,穢多等の身分はそのままとされる.馬医は士族である.

2012年8月16日木曜日

猫の腎臓を入替ふ

昭和十年七月二十日発行の「応用獣医学雑誌」に『猫の腎臓を入替ふ』との記事がある.明治四十二年の通俗雑誌からの転載で,アメリカのカーネーギ学術研究所のカール(仏人・カレル)博士の猫の腎臓移植を紹介している.博士が移植を始めたのはその四年前の1905年の事である

2012年8月13日月曜日

有隣堂

京橋区南伝馬町二丁目十三番は現在の中央区京橋二丁目2番10号.隣の十二番で検索すると太陽生命ビルの建物がヒットする.画面に右端に堂の文字が読み取れるから,間違いない.印刷は神田区南乗物町十四番地有隣堂活版所で行なっている.有隣堂は明治十四年に十歳の田山花袋が丁稚奉公したと余録にあった.

石黒秀雄略歴

石黒秀雄 1909-2000年 東京帝国大学獣医実科卒,東京慈恵医科大学,東京高等農林学校,昭和15年宇都宮高等農林学校を経て昭和26年より山口大学農学部教授.鹿児島農林専門学校に勤務した記録は無い.柴内大典談とあるから,元山口大学農学部獣医学科家畜内科学教授の勘違いか?柴内教授は東大銀時計卒業であったが,実際の授業は非常勤講師の藤村忠明先生が担当した.

2012年8月12日日曜日

北島三郎・台湾情報

北島三郎は屏東農業学校の教師とある.「日本獣医史学雑誌」第42号より.

2012年8月11日土曜日

北島三郎は満州帰り?

「日本獣医学人名事典」には山口大学教授・鹿児島大学教授で台湾犀東農業学校教授とある.台湾の犀東は屏東(へいとう)の誤り.現在の国立屏東科技大学で1924年開校の高雄州立屏東農業補習学校のこと.1924-1945年まで校長は日本人.「現代の獣医」に大正時代の台湾の畜産事情の報告があるが,台湾の畜産は豚と家禽が中心で牛馬は少ない.

2012年8月5日日曜日

昭和33年刊「防長本草学及生物学史」

著者は「日野巌」略歴に明治三十一年九月一日午後十時出生とある.大正十二年東京帝国大学農学部農学科卒とある.その後宮崎高等農林学校教授を経て印度支那に赴任.昭和二十一年四月二十五日復員.同年八月三十一日山口獣医畜産専門学校講師.前掲山縣論文では佐賀閥の副頭目を満州帰りの北島三郎とするが,日野巌も似たような輩.

2012年8月4日土曜日

山口獣医学雑誌第38号






山口県立山口農業高等学校百年史428-435頁に「第六節 農業専門学校設立問題」に詳しい記述がある.