明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2010年12月10日金曜日

天然記念物・見島牛産地

指定年月日 昭和三年九月二十日 指定地 阿武郡見島村 昭和二年六月,内務省史蹟名勝天然記念物調査委員・理学博士渡瀬庄三郎が現地調査.岩根史蹟名勝天然記念物考査員の執筆する「山口県史蹟名勝天然記念物の概要」昭和八年山口県発行非売品では,『見島牛の沿革明らかならざれども,往古亜細亜大陸に広く分布せし牛が朝鮮を経て我国に渡来し・・・』とある.指定の理由は報告されていない.昭和五十年の「獣医畜産新報」に研究論文がある.

2010年12月6日月曜日

良薬馬療弁解二版


宝暦九年上梓,寛政八年求版と安政六年の再版.行数・字数が変更されているが内容は同一.
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2010年12月5日日曜日

平仲国

遣唐使の派遣は国事行為であるために朝史に正確な記録があるが,平仲国の名前は無い.平の姓がまだ無い時代の事である.

隋代時,日本聖德太子曾命小野妹子等兩次來到中國,帶來大批留學生學習中國古代的科學技術以及製度等。 公元702年(日大寶二年),日本大寶律令中已有烙馬臀部、燒烙蹄底的記載(於船.中獸醫學遺產的繼承和發揚及其對國外的影響.見:馬世昌主編.北京農業大學出版社1993年6月《獸醫專業教育概論》第13頁)。

公元804年(唐貞元二十年;日延歷23年),日本人平仲國曾隨遣唐使來中國學習獸醫。 他回國後培養一大批弟子,分佈於日本各地,並形成了稱為“仲國流”的獸醫學派。 公元1551年(日後奈良天皇天文20年),出版獸醫著作《馬醫醍醐》12冊,其中載有平仲國與其子安國、眼心3人討論病例的內容,題為《仲國百問答》 ,其主要內容來源於唐代李石的《司牧安驥集》。 以後日本所出現的《仲國秘傳集》(日天文22年,1553年)、《安驥拔書》(日永祿五年,1562年)、《療馬圖說(桑島流)》(日天正元年,1573年)、《馬療治秘傳書》(日文祿二年,1593年)等,也都是主要參考《司牧安驥集》和中國古代其他獸醫著作編寫而成。

公元1604年(日慶長九年)桑島學派的繼承人橋本道派所編著的《假名安驥集》12卷,主要參考《司牧安驥集》編譯而成,今將其序言摘譯如下:

“自本朝平仲國以來,養馬佳著很多,代代相傳到藤氏仲綱。由仲綱傳至道蝸,道蝸再傳到我。不以這些馬書為依據,難免有所偏頗。本人雖才智淺薄,已參閱馬師皇《安驥集》,欲研習其獸醫妙術。現在抽暇將我邦馬書及師皇刊本為藍本,加以增刪,選其精華,刪其蕪雜,校其訛誤,並刊假名於是書。雖然選擇或有未精,蒐集也未較廣,但奉赦編撰,已編成本書共十二卷”(謝成俠編著《中國養馬史》第42頁,農業出版社1991年5月;中村洋吉著《獸醫學史》第25頁,東京養賢堂1990年9月;白井恆三郎著《日本獸醫學史》第84~86頁,東京文永堂1944年9月初版、1979年3月復刻)。

中國明代由喻本元、喻本亨編集的《元亨療馬集》是國內外流傳最廣的一部獸醫古籍,丁賓1608年為該書作序。 日本德川八代將軍吉宗為了培養日本馬醫,曾向中國有獎徵集《元亨療馬集》等醫書,聘請專職馬醫。 據中村洋吉氏《獸醫學史》記載:1724年(日享保9年)唐船(中國船)5號船主施翼亭攜帶《元亨療馬集》、公元1725年(享保10年)唐船主李亦賢《療馬集》均被賞銀3枚;1728年(享保13年)又特聘中國沈大成、陳采若、劉經先東渡傳授養馬、騎乘、相馬,以及馬病診療等技術,其中劉經先為祖傳三代獸醫,他負責傳授方藥、針灸、燒烙、馬病診療和家畜去勢等技術。 在日本頗具影響的4冊《清朝馬法口傳》,就是記述他們3人技術的醫書(《獸醫學史》第35~36頁、第45~47頁)。

2010年11月30日火曜日

馬経大全の書誌的研究・日本獣医学雑誌第二十三号

馬経大全の書誌的研究     架夢茶庵完児
旧東北帝国大学図書館の蔵書・和乙八二八八に『馬経大全』がある。この書の絵扉の題は馬経大全、目録部書名・新刻参補馬経大全で、春夏秋冬四集四巻から成る。編者の名は国師・馬師問、寶善堂の梓である。春集の巻頭書名は新刻参補針醫馬経大全、四辺は双行、目録部のみ有界で、匡郭は縦二十一・五糎、横十三・五糎、毎半葉十一行、行二十六字、仮名混り漢文である。夏集は新刻参補針醫馬経大全、春集同様の版であるが、行二十八字となる。秋集は新刻参補馬経大全、末尾に大字で参補馬経大全秋集終とある。更に冬集は参補針醫馬経大全と書名が変わり、目録部は無界となる。冬集末の奥附は書林西村市郎右衛門蔵版で、刊年等の記載は無い。奥附の後には半葉の広告がある。
『馬経大全』について謝成侠は『中国養馬史』の中で、『元亨療馬集』をもとにして、明暦二年(一六五六)に日本の国師・馬師問が編集し刊行されたと述べているが、馬師問とは日本人の実名であろうか。実名とすれば一体いかなる人物で『馬経大全』は『元亨療馬集』からどのような経緯をたどり刊行されたのであろうか。本文はこれら数々の疑問点を明らかにすべく、西村市郎右衛門蔵版の『馬経大全』を手掛かりに、書誌的研究を試みたものである。

一、西村市郎右衛門について
西村市郎右衛門は一人ではなく、数代にわたり名称が継承される江戸時代初期からの、かなり有力な京都の書肆である。板元所在地は、天和から元禄頃が京都三条油小路東へ入ル町、宝永頃は烏丸通六角下ル、享保年間になって堀川錦小路上ルと変わる.
元禄から享保にかけては、わが国でも出版が盛んになり、刊本も増加するが、それと共に幕府の取締りも強化されて、出版業者達は京、大坂、江戸と、それぞれに書林仲間を作り、相互に連絡、監視、統制を行う。この当時の仲間記録に『京都書林行事上組済帳標目』(3)があるが、宝暦から明和にかけて西村市郎右衛門の名はしばしば登場する。図一は、明和三年(一七六六) のものである。
『一、療馬醫便西村市郎右衛門出板馬療撮要銭屋三郎兵衛出板之所大坂本屋新右衛門方馬療弁解指構付越之分新右衛門持被上候事井大坂行事より書状之写』
西村・療馬醫便と銭屋・馬療撮要〔馬療針灸撮要・作者泥道人、宝暦十年(一七六〇)刊〕に対し、大坂本屋新右衛門が馬療弁解〔作者似山子、宝暦九年(一七五九)刊〕と内容が同じであるとのクレーム(差構)を付けた事件の記録である。
大坂本屋新右衛門の主張が正しければ、似山子、泥道人、療馬腎便の作者は同じ人物という事になる。このような事例は少なくなく、当時の出版方法からしても版木を入手しさえすれば、中身は元のままで、書名、作者名を作り変える事は簡単で、しばしば行われたと考えられる。
しかし残念ながら、『上組済帳標目』の古いものは欠けており、西村市郎右衛門は代々同じ名称を用い、刊本も多数にのぼるため、この標目中から『馬経大全』を選び出す事はできなかった。そこで改めて西村市郎右衛門蔵版『馬経大全』自体を調査し、検討を加えた。

二、載文堂の広告と奥附

西村市郎右衛門蔵版 『馬経大全』冬集巻末には、半葉の広告があると先に述べた。この広告の上下段には、岡本為竹一抱子述作の医書十二と、六つの医書々名があり、『馬経大全』もこの内に加えられている。坂元は京堀川通錦小路上ル町、載文堂西村市郎右衛門である。
岡本為竹とは近松門左衛門の実弟で、一抱子と号する人物であるが、彼の述作書の書名は、上段右より貞享二年二六八五)、同五年(一六八八)、元禄三年(一六九〇)、同四年 (一六九こ、同八年 二六九五)、同十三年(一七〇〇)、下段は元禄九年 (一六九六)、同十二年(一六九九)、末刻、未刻、未刻、享保十三年(一七二八) とほぼ刊年順にならべられている(4)左側には唐本も見られるが、竹中通庵の李士材三書は元禄六年(一六九三)、鍼法口決指南(和田養安) は享保十三年 (一七二八) の刊本である。既刊書の刊年から、この広告は間違いなく享保十三年(一七二八)以降に印刷発行された事がわかる。しかもその年には、三つの岡本為竹述作医書は未刻である。未刻の一つ回春脈法指南六巻が、載文堂より『萬病回春脈法指南』六巻として刊行されるのは享保十五年(一七三〇) の事である。つまりこの広告は、享保十三(一七二八)~十五年二七三〇) の間に作られたとしか考えようがないのである。
享保十三年(一七二八) と言えば、ちょうど西村市郎右衛門が、京六角通烏丸西へ入ル町から、広告にある堀川通錦小路上ル町へと出版元を変えた頃である。つまりこの広告には、書物の宣伝以外に、出版元を変えた事を知らせる目的があったのではあるまいか。
広告の前には奥附がある。ここには、単に書林西村市郎右衛門蔵版と記されているが、つぶさに調べると、この部の下の匡郭には段差がある。しかも双行は行間寸法が異なる。他の葉には、このような段差のある匡郭は全く認められない。
著者も木版の経験があるが、このような版の乱れは明らかに埋木である。版木に鋸を入れノミで割落して、別の版木を埋めたのである。では、新刻と称する版に、埋木をしてまで版元の名を入れねばならなかった理由は何であろうか?。他人の版元の名がそこに刻まれていたとしても、それならば平鏨で削り落せば十分に事足りる。その理由は他に存在した。享保七年二七二二)十一月の 『一、何書物によらず、此以後新板之物、作者井坂元之実名、奥書二為致可申候事』 (御触書寛保集成」 の布令である。これまでの広告と奥附の調査から、西村市郎右衛門蔵版載文堂 『馬経大全』 は享保七年(一七二二) 以降の刊で、販売は享保十三 (一七二八)~十五年(一七三〇)頃と推測されるのである。

三、河内屋喜兵衛版『馬経大全』

先の『馬経大全』が、その後どのような運命をたどるかは定かでない。再び登場するのは、幕末の頃、所は大坂心斎橋通北久太郎町である。
載文堂『馬経大全』 の版木が河内屋書兵衛の手に渡ったのである。河内屋『馬経大全』 にも刊記はない。しかし奥附に並ぶ売元十二の名から、発売されたのは明らかに幕末期である。
余談になるが、河内屋『馬経大全』 の刷り上りは上等である。上質の版木としては硬い桜が用いられるが、これとても刷り重ねるに従って、段々につぶされ、不鮮明な刷り上りとなる。河内屋の版が載文堂のものより鮮明である事は、なぜであろうか。復刻改版であることが明らかにされる.

四、馬経大全の記録

これまでの調査で、載文堂-河内屋、享保-幕末、京都-大坂を『馬経大全』 に関して線で結ぶ事ができた。そこで次は、享保年間を出発点に潮り、古い記録をたどる事にした。
◎ 好書故事
書物奉行近藤正斎の残した記録である。巻五十八・九に次の条がある。
(一七二三)
「長崎唐方覚書二 享保八卯年九月
一 馬療之書
右は馬鏡大全之外昔時相用書持渡候様被仰渡卯貳番船主(一七二五)李亦賢御請、但翌々巳年二月療馬集壹部同人言傳遣候を六番船主朱允光持渡為御褒美李亦賢へ銀三枚被下置」
 これには書名が『馬鏡大全』とあるが、御褒美付の特別注文書である。『六番船書籍改』により享保十年(一七二五)の舶載書を調べると、『元亨療馬集』一部一套に『折本馬医書』二冊である。
◎ 江戸幕府編纂物
この本では『有徳院殿御実紀』附録巻十五の「其後仰により馬経大全の和解をもつくりて奉れり」との官医・林良適の記述を引用している。さらに著者福井保は、『馬経大全』は明の馬師問があらわした馬医の書で、『新刻参補針醫馬経大全』と称する明刊本が舶載され、京都の上村次郎右衛門が翻刻した和刻本も流布していたと述べている。上村版については、賓善堂本重刊として杏雨書屋蔵書杏五五六四に書名があるが、元禄九年(一六九六)以前に刊行されたものである。(後述)
◎徳川時代出版物出版者集覧
これでは、狩野文庫蔵本の『馬経大全』について触れている。一つは玉水屋・北尾八兵ヱ版と、今一つは先に述べた西村載文堂の版である。玉水屋・北尾八兵ヱ版は、営業年間から元禄十一年(一六九八)⊥享保三年(一七一八)の刊行と考えて誤りないであろう。いずれも明・馬師問の編とするが、馬師問を明国の人とする証拠に乏しい。
◎倭板書籍考
元禄十五年(一七〇二)に京都の木村市兵衛によって書かれた自筆の記録である。『新編集成馬医方』には馬経大全の標名があり、「馬経大全」八冊は朝鮮人の作,『参補馬経大全』は非和本と記録している。
朝鮮活字刊本「馬経大全」について、三木栄は、著書の中で『新刻参補針医馬経大全』四巻四冊は『郷薬集成方』と同じく李曙が訓錬都監小活字を以って仁祖十一年(一六三三)に刊行したもので馬師問なる者の撰で明の書である』と述べている。
朝鮮活字本の馬経大全は、杏雨書屋蔵書乾五一七九に、『新刻馬経大全』秋集一巻 朝鮮 闕名撰 朝鮮活字本一帙一冊として、一部分がわが国にも現存している。
朝鮮における『馬経大全』は壬辰・丁酉の倭乱、丁卯・丙子の胡乱といった戦乱に処するため、それまでの安驥集系『馬医方』に変わり、明から導入されたものである。朝鮮では、明のいかなる書を基に『馬経大全』を刊行したのであろうか。
◎正徳-寛文の書籍目録
正徳五年 (一七一五)、宝永六年 (一七〇九) 〔元禄九年(一六九六) の改版〕、元禄十二年 (一六九九)、元禄五年(一六九二)、貞享二年二六八五)版、延宝三年(一六七五)、寛文十年二六七〇)の書籍目録にはいずれも「八 馬経大全 馬師問編」とある。元禄九年(一六九六) 以降のものには、八冊上村次 (郎右衛門)の小字が付され、前述の上村版は、この時すでに刊行されていた事が明らかにされる。
◎和漢書籍目録
この目録は無記銘であるが、書誌的には寛文六年 (一六六六)頃のものとされる。『馬経大全』の書名はあるが、刊年、編者、版元等の記載はない。
◎東寺観智院蔵萬治二年書写本
わが国最古の書目集とされる萬治二年(一六五九) の東寺観智院蔵書写本には、『馬経明集』、『同大全』とあり、「馬経大全」の名がある書物が存在した事が明らかにされる。
 これまでの記録の中で注目すべきは好書故事,江戸幕府編纂物,である。好書故事,江戸幕府編纂物は明から直接『馬経大全』と称する『元亨療馬集』がわが国に持ち込まれた記録で、発注者は時の最高権力者である幕府・将軍吉宗である。将軍吉宗は武術わけても馬術を好み、馬書・馬医書の類から、馬・馬医まで広く海外に求めた事はよく知られている。
一方、倭板書籍考の記録は明らかに朝鮮経由である。ここで経由とするのは、三木栄の述べるように、大陸から輸入されたものである事による。では一六三〇年頃の当時、明で最新、最高の馬医書で 『馬経大全』の名を持つものは何か。それは、わが国からも注文のあった『元亨療馬集』に他ならない.
『元亨療馬集』に『馬経大全』の表題が付けられる事は、明~清代に余りにも版本が多いため、現代の中国でさえも明らかにされていない。そこで、次に中国での  『元亨療馬集』 の刊行流布の跡を、わが国での記録も折り混ぜてたどってみた。

五、元亨療馬集

丁序本『元亨療馬集』の刊行は、明の萬暦三十六年(一六〇八)の事である。原刊の序末には「萬暦著雍◆灘歳清和之吉、嘉善丁賓改亭氏題」とあり、明の萬暦三十六年四月初一日に丁賓が序文を書いた事から明らかである。『元亨療馬集』 とは喩兄弟の字をもって付けられた名で、兄は喩仁、字本元、別名曲川。弟が喩傑、字本亨、号月波。字の二文字を採ったものである。
序文の作者丁賓は、明朝新江省嘉善の人で、字は礼原、号して改亭、隆慶五年(一五七一)に進士になって三十余年間、南京で官の職に就く。崇禎六年(一六三三)卒。十六世紀の後半期、元亨兄弟と親交があり、二人の卓越した獣医術とすぐれた人柄をたたえて序を贈ったと中国の書には書かれている.
◎四庫全書総目提要
四庫が館を開くのは清の乾隆三十八年(一七七三)、全書総目が成るのは同四十七年(一七八二)の事である。この記載によれば、

「[療馬集四巻附録一巻]内府蔵本 明喩傑同撰仁傑皆六安州馬医其書方論頗簡明附録一巻則医駝方也」

書名が単に『療馬集』で字が見られない事、附録が医駝方である事、序文について全く記載がない事から、内府蔵本として収められたものはきわめて初期の書で、丁賓序本よりも古い可能性をうかがわせる。前後には『水牛経』『安驥集』『類方馬経』、『司牧馬経◆驥通元論』、『◆驥集』等の中国古典獣医書の名が並ぶ。
◎重編校正元亨療馬牛駝経全集
本書の序と校記説明には、集成と成立の過程が述べられている。『元亨療馬集』には、丁序本と許序本があり、原刊は丁序本で、許序本は清代の再版である。この二者は序以外に内容の一部が異なり、再版許許序本は、〔東渓素問砕金四十七論〕を欠く。
東渓素問砕金四十七論は、東渓主人こと衰希◆と、曲川(喩仁=兄)の二人による馬の生理・病理に関する問答集で、秋巻の重要な部分である。新たに開発された術、論を加えながら集成されていく過程において、削除は珍しい事であり、序文と共に伝わる『元亨療馬集』が、丁賓序本か許◆序本かを知る重要な手がかりとなるものである。
◎舶載書目
亨保九年(一七二四)の舶載書目第十四冊四十四丁から五十四丁にかけて、『元亨療馬集』と『療牛集』の記録がある。
発注は、「好書故事」によれば享保七寅年(一七二二)十二月、寅九番船主施翼亭御請、御褒美銀三枚付の特別な文書である。
書名に続いて目録内容を詳細に記録しているが、これは幕府からの注文書物が、初めて長崎に公式に舶載された事を示している。目録からこの書は、新刻蘇板・丁賓序本で、東渓素問砕金四十七論を有している。附録は薬方である。この記録は先に『馬経大全』の項で述べた官医林艮適・和解の記録と年代的によく一致する。
◎典籍秦鏡
天保十二年(一八四一)辛丑秋七月の自筆序文である。これには、明版と清版が区別して記載されている。明版の『元亨療馬集』は全四冊で、相馬全書、相馬経、療馬全集の名がある。
◎徳藩毛利家蔵本療馬全集
『元亨療馬集』 について調査を重ねるうち、山口大学図書館の旧徳山藩毛利家蔵の療馬集を調査する機会を得たので、ここに紹介する。
徳藩蔵書印のある『元亨療馬集』は四巻六冊、四辺双行、有界で匡郭寸法縦二十糎、横十三・五糎、毎半葉十二行、行二十三字である。扉には刻蘇板全相大字元亨療馬集 金陵三山街世徳堂梓とある。次の丁は目録で「新刻蘇板元亨療馬集目録 療馬全集一百三十九論春夏秋冬四巻」と続く。巻頭書名は元亨療馬集、集は六安州医獣 喩本元亨、校は東渓主人・衰希◆、汝顕堂梓である。春巻は四十七丁、末に六安州医獣揚潮字東源朱鉦字従爾 同集と二人の獣医の人名がある。夏巻は元亨療馬法 六安州 曲川 喩仁字本元編 月波 喩傑 字本亨集 金陵 少橋 唐氏 汝顕堂梓で、巻末は先の二人の名に代え、曲川撰とある。秋巻は再び六安州医獣揚潮字東源朱鉦字従爾全集。冬巻は無記銘の巻末である。次いで丁数は一に改まり、目録もなしに駝患黒瘡病第一が駱駝の図と共に展開する。これが附録の医駝方である事は、丁を進め十三丁目に「新刊医駱駝薬方附後」と記されて初めて理解される。医駝方は十七丁あり、版の大きさは療馬集の部と同じである。この医駝方の部には編撰者等の人名は全く記されていない。
 この『元亨療馬集』 には序文がない。第一筋目に一部糸切れは認めるも保存は良く、葉を欠いた様子はない。序文はないが、目録と内容には 〔東渓素間砕金四十七論〕があり、清代再版許◆序本以前の姿を留めている。では、六安州医獣揚潮字東源らにより〔新刻蘇板〕として翻刻された元亨の療馬集とは何か。
乾隆四十年(一七七五)、原刊作『元亨療馬集』を忠実に世に伝えんとして翻刻された郭杯西の『新刻注繹馬牛舵経大全集』自序に次の条がある。
「喩氏伯仲。集注先賢症論。倶各盡善。熱意書成萬暦著薙◆灘歳。至康紀州十九年庚申歳。吾州警獣揚東源翻刻。今乾隆四十年乙末歳。又。復翻刻。……」揚東源らの翻刻した『元亨療馬集』は、原刊作七十二年の後、康煕十九年(一六八〇) に刊行されたものである。これは許序の再版よりも五十六年早く、原刊作の姿を留める貴重な書と言わねばならない。
特別注文で銀三枚御褒美付の貴重書が、外様の大名の、しかも毛利支藩の徳山藩に伝えられた由来は定かでない。幕府の『元亨療馬集』は『元治増補御書籍目録』子部、附録にある如く、療牛集二巻、駝経一巻と共に幕末まで大切に保管されている。

六、馬経大全と元亨療馬集の比較

これまでの調査において、複写ではあるが、賓善堂梓・西村載文堂『馬経大全』と、汝顕堂梓・世徳堂『元亨療馬集』を入手し、その刊年を考証した。そこで、次にこの二者の目録、図、内容本文にわたる比較と照合を試みた。比較照合は『馬経大全』の冒頭にある目録の番号順に従った。
目録には順の変動、省略分割、誤刻があるも、まず同一である。図にも大きな差は認められないが、『馬経大全』の相馬法 三十二相形駿之図と旋毛図には各所に墨ベタの部分がある。これはいかなる理由によるものであろうか。あえて文字を伏せた点に、時代を背景とする作意が感じられる。本文内容では『元亨療馬集』は「出口□□」と引用出典の古典獣医学書の名が明記されるが、『馬経大全』にはこれがない。その他にはわずかな文字の誤刻、生薬名の違いを認めるも、ほぼ同一である。つまりこの二者の差は、中国語か、仮名混り漢文の日本語かの記述様式のみである。例えるならば、中国服と和服を着た一卵性双生児のようなものである。

七、馬師問と寶善堂

最後に、この書誌的研究の発端となった、国師・馬師問と賓善堂について述べる。まず、馬師問とは何処の国の人物であったろうか。わが国の多くの記録と、朝鮮経由説の三木栄は、明国の人とする。確かに中国大陸には、馬師皇をはじめ馬姓の人物が存在し、その可能性は最も高い。しかし、そのうちの誰が載文堂『馬経大全』 に見られる返り点、片仮名付の日本語版元亨療馬集を翻刻し得るであろうか。大陸には日本に向けて『元亨療馬集』を翻刻したとの記録はない。
次に、朝鮮にも馬姓の人物と 『馬経大全』がある。しかし、馬師問が朝鮮の人物であるとするわずかな可能性も、『倭板書籍考』 の木村市兵衛は「編者ノ名ナシ」「倭本ニナシ」と否定的である。更にこの期の朝鮮半島においては、『新編集成馬医方・牛医方』序文にある如く、「(京畿道)南陽 (姓)房 (名) 士良」著と、姓名に出身地を冠して表わすを常とする。国師とは、朝鮮半島の一体何処の地であろうか。
やはり馬師問とは、謝成供の述べた如く日本人であろう。ただし、日本人には帰化人を除いて馬姓は稀で、この名称は架空のペンネームであると著者は考える。第一『馬経大全』の編者が馬師二問フとは、偶然にしても出来過ぎである。しかも、わが国には泥道人、似山子と称するペンネームとしか言いようのない療馬書作者が存在する。読点もなく、難解な専門用語を織り混ぜた『元亨療馬集』に、返り点、送り仮名を付け、日本語に翻訳する事は、高い学識を有する者の成せる技で、その学識をもってすれば、「帝問馬師皇脈色論」から、馬師問のペンネームを作り出す事は、容易であると考えるのである。
さて、ここに一つの不思議な書がある。浅野図書館貴重図書印のある 『新刻京陵原板参補針醫牛経大全』上巻の巻頭書名・新刻京陵原板校正参補針醫牛経大全、下巻同新刻京陵原板参補針醫牛経指南である。版は四辺単線、匡郭二十×十一・五糎、半葉十一行、行は空一格の二十七文字、寶善堂の梓行とある。
本書の内容はこれ又『元亨療馬集』 の附録療牛集『牛経大全』 と同じで、書名から京陵原板本の翻刻である事が読み取れる。梓行は 『馬経大全』 と同じ賓善堂である。しかも手を加えた(参補)のも『馬経大全』と同様に針医とある。針医・賓善堂梓・元亨本の翻刻と、これだけの条件が整いながら、さすがに牛の事まで馬師に問うには気がひけたとみえ、馬師問の名はない。馬師問は依然として謎の人物である。

参考文献 
(1)謝成快、中国養馬史、日本中央競馬会弘済会(一九七七)。
(2)湯沢賢之助、西村市郎右衛門(代々) の出版・文筆活動、国文学・言語と文芸、88‥89-108。
(3)宗政五十緒、京都書林仲間記録、ゆまに書房二九七七)。
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(5)国書刊行会、国書刊行会叢書・近藤正斎全集、国書刊行会(一九〇五~一九二二)
(6)大庭情、関西大学東西学術研究所資料集刊、舶載書目、関西大学東西学術研究所 二九七二)。
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(8)徳富蘇峰、近世日本国民史・徳川吉宗、講談社学術文庫
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(10)井上正己、日本書目大成刷、井上書房(一九六三)。
(11)三木栄、朝鮮医学史及疾病史、自家出版(一九六三)。
(12)斯道文庫、江戸時代書林出版書籍目録集成、井上書房(一九六二)。
(13)阿部隆一、江戸時代書林出版書籍目録解題・和漢書籍目録、井上書房 (一九六二)。
(14)中国農業科学院中獣医研究所、元亨療馬牛舵経全集、農業出版社(一九六〇)。
(15)中国農業科学院中獣医研究所、元亨療馬集選樺、農業出版社、(一九八四)。
(16)王雲五、四庫全書総目提要、台湾商務印書館(中華民国六七年)。
(17)荒井秀夫、国立公文書館内閣文庫影印・典籍秦鏡、ゆまに書房(一九八四)。
(18)小川武彦、徳川幕府蔵書目、ゆまに書房(一九八五)。
(19)安徽省農業科学院畜牧獣医研究所、新刻注繹馬牛乾経大全集、農業出版社 (一九八三)。
(20)大庭脩、江戸時代の日中秘話・東方選書5、東方書店(一九八〇)。
書名等の記述は、長沢規矩也著・和漢古書目録記述法に依った。

付記 元の論文(縦書)をOCRソフトで読み取ったもので変換ミスや表記不能の文字が多々ある。

2010年11月27日土曜日

2010年11月16日火曜日

相馬療鏡集について

「相馬療鏡集」については,現在資料が少ない.Googleの検索で北海道大学の情報が唯一ヒットするが,『仮名案驥集』の書写本とある.案驥は明らかに安驥の間違いであろう.手許の「相馬療鏡集」は春夏秋冬四巻で,最後に道流(橋本道派)仮名安驥集の書写と記されている.仮名安驥集には版本の記録があるが「相馬療鏡集」には版本刊行の記録が無いから,この書は近世から明治初期に流布した仮名安驥集の一つの型と見ることができる.

2010年8月3日火曜日

昭和十九年四月二十五日火曜日,福岡と山口は雨が降っていた.翌二十六日の開校式のために,三十六名の人員が入舎,宿泊した.
 二十六日,西日本は晴天となった.午前十時より『山口高等獣医学校』の開校式が執り行なわれた.この時期の日本人は殆ど栄養失調で,米麦を食い尽くし,高粱,芋,南瓜に野草や藁までもが食料になっていた.
 開校式にひき続いて十一時から入学式が挙行された.十二時より祝賀会が行われたはずであるが,何を飲食したかは校務日誌には記載が無い.当時の食料・酒は全部配給制で,日本人の殆どが基礎代謝量以下のカロリーと蛋白質でやっと生きていた.ただ,不思議な事にこんな時代でも煙草の配給だけは滞りなく行われているから,日本とは不思議な国である.
 開校の法的根拠は昭和十九年一月廿六日の「国専第五号」で,戦時下の獣医師の育成にあった.この他に農学校第二部卒業生への獣医免許付与の制度があるが,これは獣医免許制度の戦時特例で,山口県では極短期間ではあるが,農学校二部と高等獣医学校の二箇所で獣医の育成が行われていた.農学校は山口県の所轄で校舎は小郡の山手にあり,高等獣医学校の所轄は文部省で校舎は蔵敷の小郡高等女学校の後に設けられた.
 『山口高等獣医学校』は昭和二十年三月二十九日,『山口獣医専門学校』と改称,昭和二十三年十二月十五日に下関市長府に移転し,昭和二十四年二月二十日に『山口大学農学部』となった.

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2010年7月13日火曜日

山口県の古墳時代の馬具


小野忠熈著「山口県の考古学」昭和六十年吉川弘文館発行によれば,五・六世紀の古墳十二基から馬具が出土している.防府市右田前方後円墳片山古墳・銀製杏葉,雲珠,轡,鞍,下松市天王森古墳・轡,山口市馬塚古墳・轡,鞍,山口市白石茶臼山古墳・轡,下関市上ノ山古墳・轡,下関市秋根二号墳・轡,周東町北方古墳・轡,下松市宮原遺跡七号住居跡・轡の部品,防府桑山の中腹の塔ノ尾古墳・輪鐙一対,長門市糘塚・金銅製壷鐙二対,馬具の断片・山口市幸崎一号墳,下関市若宮古墳,吉敷郡阿知須町丸塚二号墳.滑石製石馬・山口市吉田馬木,宇部市東岐波波雁ガ浜遺跡.

2010年7月11日日曜日

時重初熊博士に関する論文

Dr. Hatsukuma Tokishige

(November 28, 1859-April 19, 1913)
  The year of 2009 is the 150th anniversary of the birth of Dr.
Hatsukuma TOKISHIGE. He is one of the greatest veterinary patho-
microbiologists in the field of Japanese veterinary medical science.
 He was born at Heta Village, Tsuno County (present Shunan City),
 YamaguchiPrefecture. He grew up in the turbulent years of Meiji 
Restoration, which transformed the feudal Japan into a modern 
nation.
 In July 1885 he graduated first on the list from the Faculty of
 Veterinary Medicine, Tokyo Imperial University (present Tokyo
 University). In March 1899 he received D.V.M. degree from Tokyo 
Imperial University.
 In Japan Epizootic lymphangitis (so-called Pseudofarcy or Saccharo
mycosis equi)was known for more than three hundred years. However, 
it was not until 1896 that the  causative  microorganism,  Zymonema
farciminosum,   was discovered by Dr. TOKISHIGE.
 There is not a shadow of doubt that any other scientists could 
cultivate a microorganism. The first pure cultures were successfully
acquired through Dr. TOKlSHlGE's desperate endeavours. It was in
July 1896 that he succeeded in the cultivation of the microorganism 
for the first time in the world. His investigation into Epizootic
lymphangitis covered all the fields of this disease, which included 
not only mycology,but also ecology, clinical medicine, pathology, 
and epidemiology. His contribution   deserves  the  first place in 
the history of veterinary medical science in Japan.
  Even today, Epizootic lymphangitis is still an endemic in Europe, 
Africa, Asia, and Russia. In Japan, however, it was conquered by 1947.
 This remarkable success in Japan is derived from the basis of Dr.
TOKlSHlGE's prominent scientific theory.
 He was sent to Germany for three and a half years, that is, from 
June 1898 to February 1902. He studied at Munich University (Ludwig
Maximilians Universitat zu Munchen) for one and a half years, and then 
at Berlin University (Friedrich Wilhelms Universitat zu Berlin) for 
two years. His study and research covered pathology, microbiology, 
parasitology, meat hygiene, and so forth. His teachers included Dr.
Theodor Kitt, Dr. Otto Bollinger, and Dr. Robert Koch, all of whom 
were the greatest scholars of the world in those days.
  In February 1902 Dr. TOKISHIGE became a professor of Tokyo Imperial
University.
 In March 1910 he concurrently served as the director of the newly 
established
National Institute of Veterinary Research (present National Institute 
of Animal Health,Ministry of Agriculture and Forestry). In 1903 he was 
elected to a member of Japan
 Central Public Health Committee. He rendered great contributions in
 the field of public health of this country. He was widely known as 
an outstanding scholar, and also a devoted educator. He sent a number
 of his disciples to schools and research centers in Japan, and 
 there  they  rendered  great  services for the development of 
veterinary science of this country.
  The following are a part of his principal achievements '.
Epizootic lymphangitis (so-called Pseudofarcy ), Equine infectious 
anaemia, Equine encephalitis ( so-called Borna's disease ), Strangles, 
Rinderpest, Tuberculosis, Swine pasteurellosis ( so-called 
swine plague ),Dermatitis pustulose contagiosa, canadensis 
( so-called Canadian horse-pox ) ,   Oesophagostomiasis 
( due to   Oesophagostoma columbianum ), Habronemiasis 
( so-called Dermatitis granulosa   or Himushi disease),
Bovine Babesiosis, and their related subjects.
Of the above, the investigation into Epizootic lymphangitis
is the most admirable achievement made by him.
 Dr. TOKISHIGE died of chronic bronchial catarrhalis in
Tokyo on April 19, 1913.
 Needless to say, his death was a great loss to the world of 
Japanese veterinary medical science. He himself, as well as
his great contributions, has certainly left  a  permanent 
example  to  the  future generations of veterinary medical
science.
  For further reading:see The Yamaguchi Journal of Veterinary
Medicine, No. 6,
1979, pp. 39-48, as to a chronological record and other materials
of Dr. TOKISHIGE written by Hiroshi KlSHl, D.V.M., a veterinary historian.

                       Hiroshi YAMAGATA D.M., B.V.M.
                               Editor in Chief

Ogori, Yamaguchi-shi
November, 2009

2010年7月5日月曜日

獣医学教育制度改革の未成65年余に想う


山口大学獣医学科は,旧制山口獣医専門学校創立の1949年からの34年間の草創期に,2ツの大きな禍根を抱え込んだ.その余燈は,実に半世紀以上経過した65年余の現在も燻りつづけ,それは獣医学部に機構拡充し,農学勢力のaheadから脱し,獣医学教育体系独自の機能展開とならない限り今後将来も続くこと必定である.
 禍根の第1は,獣医学科が既設先発校でありながら,後発の“佐賀閥を中心とする農学系勢力”の策略によって,
獣医学科を踏み台にした農学科の新設を洪手傍観したことだ.策略の真相は,獣医学科本来の拡充計画決定講座数の12を取って,農学科新設の講座に充当した点にある.現今の獣医学科教育機構の貧弱細小の原因は,古諺の“軒(ノキ),庇(ヒサシ)を貸して母屋(オモヤ)を取られた”の図式,具体的には“寄生虫(農学科,農芸化学科)に寄生された宿主(農医学科)が,栄養不良で成長が停滞したまま,生存はしている”のパターンに起因するものである.
 磋鉄は,194623月山口獣医専門学校学生ストライキを点火煽動拡大して,初代獣医専門学校長海老原初太郎を追出した事件の黒幕,仕掛人である非獣医師(東大農芸化学,県立小郡農学校長,佐賀閥の頭目)の男が,ヌケヌケと獣医専門学校長に就任したことに始まった.
 驚することは,副校長役の立場の獣医専門学校教務主任(東大獣医科卒,佐賀閥の副頭目,外地の中等農学校教員上がりの男)以下,教員達中一同が,この非獣医師校長の野心(農専校,農学科を設立する)と辣腕に易諾々で無条件服従したことだ
  ストライキで教員が四散払底し,加えて占領軍総司令部GHQ命令の公職追放令(194611月~19524月約6年間が優秀な教員適格者の獣医学系高専校・大学への就職を阻み不幸を拡張した
 禍根の第2は,獣医学科教員の人事が‘‘佐賀閥中心の農学系勢力”に事牛耳られてしまったことだ。佐賀県出
身者で東大獣医学科卒業者及びその系列者ならば,学識,人格,前歴,等々が教育者,研究者として完全な不適格
者でも即日即刻任採用された。職業。称こそ大学教授だが,その実態は中等農学校教員同等もしくはそれ以下の学
識,実力,能力の人物ばかりであった。現在もその余塵残臭を抱えているのが実状である。尤も昭和50年代中葉以降,佐賀閥の残臭が衰滅に近いことは時代と人の変遷,推移でもあろう。
 以上,2大禍根の生成の原因は,当時の獣医学科教員があらゆる点で獣医学教職者として,極めて不適格,無気
力,無責任であったことに起因する.そしてまた,獣医学校の校長は獣医師であることが絶対条件であること,また,獣医学,獣医業,獣医師を愛する人物が教職員として不可欠であることを物語っている。
 とりわけ,ストライキ後の壊滅した教員スタッフの再建担当重責者である獣医専門学校教務主任の男が,閥のし
がらみと無気力で,当事者能力を欠除していたことが決定な不幸であった.
 筆者はこの第2部において,建学の時点に何故に獣医学部にならなかったのか。その経緯とこれに関連派生した
数々の史実,教訓,エピソード,等々について,当時を知る存命者の一人として記述し,後進者への参考に供する.

2010年7月3日土曜日

山口県における獣医師の養成


山口県立農業学校での獣医師の養成
明治十八年開校.獣医科191人,獣医畜産科522人,第二部獣医科111人,合計824
第二部獣医科の制度は日中戦争中の昭和十四年の四月に獣医師不足を補う制度として設けられた.(獣医師試験規則) 山口高等獣医学校は昭和十八年一月の勅令三九号の専門学校令によって設立されたもので,第二部獣医科とは法的根拠を異にする.第二部獣医科は昭和十八年に廃止,山口高等獣医学校は昭和十九年に小郡に創立され,二十年に山口獣医畜産専門学校と改称,下関市長府に移転し山口大学農学部の前身となった.

2010年6月17日木曜日

楊時喬「新刻馬書」の十四巻は駱駝

「新刻馬書」は1594年の刊,太僕寺の出版であるから官刻で,序文は卿の楊時喬が認めている.この書の第十四巻は駱駝で,馬書・駱駝書の構成は「元亨療馬方・附医駝方」と同じである.後の官刻療馬書は全て「元亨療馬集・療牛集」の構成であるが,「四庫全書」に収められた最初の「療馬集」は元亨兄弟編で附医駝方と記録されている.元亨療馬集・馬経大全と呼ばれる書のオリジナルは坊刻本で,最初に官刻したのは楊時喬,次が丁賓,三番目が許鏘である.

2010年6月6日日曜日

フリーマーケットで購入



五裂(ゴレツ)とある.幅は二寸であるから,元の布幅は丁度一尺となる.馬では五裂,犬は八裂を用いる.大型犬の口輪をする時は尺幅の包帯を使う.細いものを使うと切られる恐れがある.
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2010年5月17日月曜日

明治期の流行性鵞口瘡・口蹄疫の発生数

明治三十三年度は2289頭発病,斃死は30頭1944頭回復.34年度627頭発病,斃死52,回復566頭,35年度522頭発病,斃死13,512頭回復.撲殺は41年度からで634頭発病のうち4頭を撲殺している.
斃死獣はいずれも幼獣で成獣では稀である.古い家畜疾病予防学の教科書には,発生した場合は完全に隔離するか,撲殺とある.感染が拡大する恐れがある時は強制的に感染させて流行期の短縮を図るとされている.強制的に感染させた場合,牛群は2・3週間で免疫を獲得する.

2010年5月13日木曜日

口蹄疫の防疫

現行の家畜伝染病予防法では,偶蹄類の口蹄疫はと殺の義務がある伝染病とされている.と殺の例外はけい留して検査する擬似患畜のみで,確定診断のついた家畜は家畜防疫員の指示に従いと殺し,死体を焼却又は埋却することと定められている.明治三十年の獣疫予防の心得では,口蹄疫は流行性鵞口瘡の名になっている.津野慶太郎「獣医警察学」では最も有力なる防疫方法は交通遮断としている.完全に交通遮断を行い,病畜を隔離できれば伝染が防げるが,旧法では英国と同様に,速やかに撲殺と交通遮断を行うべきとしている.家畜伝染病の発生時には交通を遮断して畜舎,糞尿その他の消毒を行うが,この際最も気を付けるべき事は,小鳥や昆虫,その他の小動物の駆除である.昨今の宮崎での発生例では,トラックに消毒薬を浴びせるシーンが何度か見られたが,牛舎に蝿が居ないかそちらの方が心配である.昔,満州国の時代に牛疫が発生した時の対処法は,防疫にあたる獣医は松明を片手に馬に乗り,牛舎に火を付けて回ったとある.誠に野蛮で残酷な方法だが,悪疫の流行を絶つには最高の方法と言える.

2010年1月11日月曜日

「改訂日本古代家畜史」 昭和五十七年 有明書房発行の目次と参考文献

「改訂日本古代家畜史」昭和五十七年 有明書房発行の目次と参考文献
序  章
  第一節 家畜の意義
  第二節 家畜の起原
  第一項 愛玩起原説
   第二項 宗教起原説
   第三項 経済起原説
   第四項 備荒貯蓄起原説
  第三節 家畜飼養の発展
   第一項 家畜飼養目的の分化
   第二項 家畜飼養の伝播
 第一章  犬
  第一節 由来
    第一項 考古学的遺物
    第二項 飼養とその年代
    第二節 名称
    第三節 飼養目的
     第一項 食糧
     第二項 狩猟
     第三項 防盗
     第四項 禮物
     第五項 軍事
   第四節 犬養部
   第五節 犬と農業経営  
  第六節 畜犬の発展
第二章 馬
 第一節 由来
  第一項 考古学的遺物
  第二項 文献的考察
  第三項 輸入経路
  第四項 飼養年代
 第二節 名称
 第三節 飼養目的
  第一項 食糧
  第二項 祭祀
  第三項 交通
  第四項 狩猟
  第五項 軍事
  第六項 禮物
  第七項 儀杖
  第八項 農耕
 第四節 馬飼部
 第五節 馬と農業経常
  第一項 農業労働
  第二項 所有関係
  第三項 地理的分布
  第四項 糞
 第六節 畜馬の発展
   第一項 原因
  第二項 経過
   第三項 農業への影響
 第三章 牛
 第一節 由来
  第一項 考古学的遺物
  第二項 文献的考察
  第三項 輸入経路
  第四項 飼養年代
 第二節 名称
 第三節 飼養日的
  第一項 食糧
  第二項 祭祀
  第三項 交通
  第四項 農耕
 第四節 牛養部
 第五節 牛と農業経営
  第一項 農業労働
  第二項 所有関係
  第三項 地理的分布
  第四項 糞
  第六節 乳牛
  第一項 根本資料
  第二項 頭数   
   第三項 地理的分布
 第七節 畜牛の経過
 第四章 猪
  第一節 由来
  第一項 考古学的遺物
  第二項 飼養とその年代
  第二節 名称
  第二節 飼養目的
   第一項 食糧
   第二項 祭祀
  第四節 猪養部
  第五節 猪と農業経常
  第六節 飼養の衰退
  第一項 原因
  第二項 経過
  第三項 結果
 第五章  鶏
  第一節 由来
   第一項 飼養とその年代
  第二節 名称
  第三節 飼養目的
  第一項 食糧
   第二項 祭祀
   第三項 計時
   第四項 娯楽
  第四節 鳥養部
  第五節 鶏と農業経常
  第六節 養鶏の発展 ○参考文献 コンラットケルレル著「家畜系統史」,「朝鮮史大系」,「京都帝国大学報告書」,「常陸風土記」,「播磨風土記」,「続日本紀」,「古事記」,「延喜式」,「日本書紀」,「三国志」.東京考古学会編「日本原始農業」,「三国史記」,「万葉集古義」,「東雅」,「日本釈名」,「大言海」,「日本古語大辞典」,「令集解」,「新撰称氏録」,「晋書」,「和名類聚抄」,「三代実録」

2010年1月4日月曜日

牛科撮要全

牛科撮要全  梅林堂寿梓 一七二〇年 享保第五龍集庚子  京・東六條下数珠ヤ町 丁子屋九郎右衛門   
牛科撮要序 
夫牛者農家之至用而助人力 
也勝於侘獣其功尤偉者也而 
天受之稟良薄於侘獣故食之
者摂養可用意也苟遇天疫之 
放行由飲食之窒碍忽生疾病 
也有一証俗呼多智死在旦夕 
甚則村村戸戸流注而牛属畢 
病矣窮郷賎民逢斯難則走神 
社告巫覡祓之慢委伯楽医之 
既至不救坐俟斃千槽櫪之間 
而巳鳴呼不帷蓋之思不及其 
物還與屠人之手可勝嘆哉我 
家業稼穡牛科之抜粋者数方 
世秘筐笥敢不洩也間依書肆 
之需新改正以加図画彩色令 
寿梓也然小秩何足徴唯備治 
牛之一小補耳也維眨
享保第五龍集庚子仲冬念日     
摂陽之野人       
桃林子書
きくわさん みのすじひとつふせたいら事
△きくわさん 土龍 海桐花 五八霜 牡蛎
右四品うめみずにて
白朮 当帰 枳殻 川弓 右等分に合せんじ飼うなり
はいと云うわずらい 目黄色になりはいいたむ
△はい 巻柏 牡蛎 五八霜 麒麟竭
右うめみずにて但 桔梗  羌活 麦門冬 黄今 括婁根  楊梅皮
右等分せんじ飼うべし
たち 目頭より赤きすじを三すじ出で目へのせ、目のふちを 吊り睨む也これをたちという
△たち 五八霜 土龍 海桐花  麒麟竭 鮒黒焼 鰻黒焼 
いな黒焼 巻柏 牡蛎
右等分に合うめみずにて 飼うべし
きのふ 目の内黄色になり赤き舌を出し舌先より涎垂るを きのふと云うなり
△きのふ 大黄 大 白朮 大 桔梗  縮砂 少 山梔子 中 
茯苓 細辛 升麻
右合せんじ飼うべし
きも 目尻より一すじ赤き筋を出し 足の内を向く也きもの わずらいと云う
きも 五八霜 土龍 蕗 各等分  茯苓 少
かい汁、夏は大根ゆきおろしの 汁にて春、秋は酢酒の汁の事
甘草 大 茯苓 中 黄今 等分 白笈 中 黄蓮 中  乾羌 少
合せんじ飼うべし
いんしょう 目頭より縁を赤くなし赤き舌を 垂れるをいんしょうと云う
△いんしょう 白朮 当帰 黄今 芍薬  茯苓 枳殻 甘草
右等分に合せんじ飼うなり
いんしょうの風邪 目頭より白まなこへ赤き血を 出し目を睨む赤き舌
少し垂れたるをいんしょうの風邪と云
△いんしょうの風邪 白朮 当帰 枳殻 薔薇  梹榔子 黄耆
右せんじかふべし
大祢つきさます事 □□の内を赤くなすを 大祢つきと云うなり
△大祢つきさます事 白朮 大 茯令 大  当帰 少 細辛 大  黄今 少 
乾羌 少  黄蓮 中 梹榔子 少 土龍 少 莪朮 大 甘草
右合せんじ飼うべし
いの腑のわずらい 目の内の白くなるをいの腑の わずらいと云う
△いの腑のわずらい 莪朮 木香 胡黄蓮 黄今  黄耆 白述 桔梗
右等分に合せんじ飼うべし
かんの腑いたみ 目薄く黄色に赤き舌少し出すを かんの腑のいたみと云うなり
△かんの腑いたみ 黄今 白述 黄耆 薔薇  藜蘆 麦門冬 縮砂
右等分に合せんじかふべし
しんの臓のいたむ事 目尻より赤き血を出し目をひきつり舌をくわえしんの臓の
わずらいと云
△しんの臓のいたむ事 甘草 香木 麦門冬 牛膝  人参 大黄
右等分に合せんじ飼うべし
たんの腑の事 目下赤くひつめを睨む
△たんの腑のいたみ 乾羌 大 当帰 中 桔梗 少  使君子 同 葛根 大 
縮砂 右合せんじ飼うべし
こころのわずらい 目よりちをいだす
△こころのわずらい 川弓 大 黄蓮 中 細辛 大  五茄皮 中 黄今 大 
枳殻 大 陳皮 少 右合せんじ飼うべし
四津の腑いたみ 目尻の上より赤き筋一筋出し 目を引きつり舌を少しくわえる
△四津の腑いたみ 白述 大 当帰 同 縮砂 少  天南星 少 地龍 甘草 
附子 右合せんじ飼うべし
かのわずらい 目頭より上のふち赤くなして 引き付く
△かのわずらい 茯令 細辛 大黄 当帰  木香 楊梅皮
右等分に合せんじ飼うべし
ひの臓のいたむ事 目を白くなし黒まなこ無きは ひの臓いたむと云う
ひの臓いたむ事 川骨 大 枳殻 中 薔薇 大  梹榔子 少 紫蘇 大  甘草 中 黄耆 少 土龍 中 右合せんじ飼うべし
うめきやまいの事 目の内赤く□□□□ うめきやまいの事
黄璧 中 川骨 少 甘草 大  川弓 少 木通 大 白述 大  苦参 少 
葛根 大 黄檗皮 右合せんじ飼うべし
しんの臓の風邪里へ落ちる事 目下より赤きくもを出し 下腹より黄色になり
総の毛を 立つるなり
△しんの臓の風邪里へ落ちる事 紫蘇 乾羌 陳皮 升麻  梹榔子 五茄皮 薔薇 白述  甘草 黄蓮 葛根 祢さく 右等分に合せんじ飼うべし

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