明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2011年5月14日土曜日

藤村忠明先生は大正十二年に東京帝国大学農科大学実科に入学

  着想 と そ の 実現
                藤  村  忠  明

 馬の蹄に蹄鉄を打ちつける釘と云えば、スエーデンのオーマスタット
市にある、王冠印蹄釘会社の製品が、世界で一番良く、アメリカにもあ
るコウベルという会社の製品があったが品質が悪くて使いものにならな
かった。勿論日本でも、戦時中の輸入の杜絶を考慮して陸軍で研究試作
していたが、良いものが出来ないので日本蹄釘は、全部王冠印の輸入品
にたよっていたのである。あんな簡単な蹄釘が、どうして出来ないので
あろうか、それは形は出来ても釘としての具備すべき条件が整っていな
いからである。
 その条件というのは第一に一定の物体に打ち込む時、腰が曲らないで
真直ぐに突き抜けること、即ち鋼材に適当の硬度が必要であるというこ
と。第二に、打ちつけた釘に何万回もの、強い衝撃を与えても折損し
ないという鋼材の靭性との二つの特性を持たなければならないことであ
る。鋼材の硬質と靭性は相反する性質で、硬度が増せば敵性がなくな
り、靭性が増せば硬度がなくなるものである。王冠印はその調和が誠に
良くとれているが、他の製品は腰が弱くて、貫徹力がなかったり、貫徹
力はあっても脆くて直ぐ折損したりして、用をなさなかったのである。
 こうした品質の差が、どうして出来るかということについて、色々と
論議され、先ず鋼材の材質の問題が取り上げられたが、之は我が国の最
高の製鋼技術をもって、スエーデンのそれと同一のものを作り上げ、之
を原料として釘を製作して見たが、やはり良質の釘が得られなかった。
結局造釘技術の差によることが明かとって、陸軍の優秀な技術者を優々
スエーデンに派遣し、造釘技術を研究せしめようと試みたけれども、日
本は蹄釘を買ってくれる、良いお客さんで、ある町から大変なもてなし
は受けたが、工場内には一歩も入れてくれなかったので、その試みは悉
く失敗に終ってしまったのである。
 凡そ或る会社や工場の秘密を探る方法として、正面攻法で、その社内
に入りこんで、スパイ行為することは手っ取り早いことではあるが、な
かなか実行が困難である。然し合法的なやり方としては会社や工場か
ら出る紙屑やスクラップを買い受け長時間丹念に整理検討を加えて行け
ば、完全にその内情を探知することが出来るものである。そこで私は支
那事変中にスエーデンから輸入された、蹄釘一億万本について、精密に
点検した所、その中からスクラップ同様の出来そこないの蹄釘約三百本
を発見したのである。
 之を原材料に近いもいから、順次製品に近いものへと製作工程順に配
列して見た所、誠に面白い結果を得たのである。特に機械専門の技術者
を入れて、検討を加えた結果、次の四工程で出来上ることが明かとなっ
た。
1丸いワイヤーロットから角線を引いて原材料としたこと。
2その角線をへッターにかけ釘の頭部を作りアニール (冷間加工に
  よって硬化した鋼材を七五〇℃以上に加熱放冷し元の硬度に返す操
  作) をかける
3次に46回ロールにかけ釘身を延長する。
4大体の形の出来た材料を、最後にプレックスにかけ、整形と付刃
  をする。
 そこで私はリベット、モクネジ、レールの犬釘、硬貨製造装置等の蹄
釘製造に似かよった製品を作る、あらゆる大阪の工場を視察しへッタ
ー、ロール、プレッス、について適当と思われるメーカーを探し出しそ
の機械工学の専門家に対し蹄釘製造の工程を説明し、三種の機械を夫々
の専門技術者に依頼、設計試作せしめ、之を総合運転した所見事成功し
た。そこで大阪南河内郡狭山村に工場を設立し、世界に誇る最優秀の蹄
釘を生産するに至ったのである。
 吾々の様な全くの素人でも、良き着想さえあれば、それから先は優秀
なあらゆる専門技術者を動員して、如何なる難事でもやりとげることが
出来るという確信を得たのである。
 私は過去二つの機械の考案と、十四編の研究論文を書いたが、何か新
しいことを発見してやろうとして、特別の努力を払ったことは一度もな
い。只々日常の自分の仕事を正確に整理し、その記録を作って、之を累
積して行っただけのことである。その中から新しい工夫も理論も、生れ
て来るわけであって、空くじの様な奇蹟的な幸運が、決して訪れて来る
ものではない。
 私の論文に『家畜の挽曳の理論に関する研究』というのがある。之は
終戦後六年間の追放生活中農業をしている時、終日牛の後を追って、田
を耕している間の着想で、過去における先輩の研究業績と全く相反する
ので、その力学的実験を何回となく繰返しているうち、どうしても自分
の着想が正しいことを確認したので、数学の専門家の力を借りて、その
実験成果に検討を加えた所、立派な力学の公式が産れ、役畜の体格を測
定した諸元をその公式にあてはめ、挽曳力を正確に算定出来ることに成
功したのである。
 世の中が進歩するにつれ、自分独りの力だけで何もかもやりとげるこ
とが困難となって来るから、その道の専門家を利用し完成することが大
切である。
 要は諸兵指揮官としての才能を平素より十分に養い、之を活用するこ
とが成功の鍵であることを述べるため、敢えて筆をとった次算である。

       お  も  い  出

                  藤  村  忠  明

一、最も苦痛であったこと。
    上級生に対し停止敬礼。
二、最も恐ろしかったこと。
    ひる休みに毎日のように化学教室に招集がかかり、上級生から
    意味なくなぐられたこと。
三、最も嬉しかったこと。
    なぐられ友達の優等生藤井芳雄君が弁論大会で『公正』という
    題目で(上級生を多少批判)優勝したこと。
四、最も感謝していること。
    獣医科主任岩朝庄作先生から慈愛あふれる課外指導を受けたこ
    と。大正十一年卒業生三名、十二年一名、東京大学の実科へス
    トレートで入学)
    大正十二年 獣医科卒
    医学博士 山口大学講師  山口農業高等学校創立八十年記念誌より

2011年5月8日日曜日

有隣堂・家畜年齢図説

明治十九年版権免許.初版二十年.四版は明治三十四年七月十日発行.定価金二十銭.

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