明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年3月28日土曜日

殺牛馬祭祀

殺牛馬祭祀

古代の日本に牛や馬を殺して、いけにえとして捧げ、雨が降るよう祈る、祭祀があった。
 殺牛馬祭祀は、古墳時代後期にはすでに日本に伝わっていた祭祀で、帰化人によってもたらされて次第に各地に広まっていったと考えられる。特に、神奈川県の柁切遺跡と山口県の周防国府跡は、殺牛馬祭祀を考える上で非常に重要である。
 また、平城京をはじめ各地から土馬が発見されているが、土馬による祭祀は殺牛馬祭祀の延長線上にあると思える。
 殺牛馬祭祀は古墳時代後期に始まり、奈良・平安時代を通じて盛んだったが、その間には時期的変質があったと思える。
 丑年生まれの桓武天皇は牛の殺されることを嫌って、たびたび殺牛を禁止する法令を出しているので、そのような禁令や祈雨の社としての丹生川上神社の成立などによって、殺牛馬祭祀も変質をきたしたと考えられる。
 
   殺牛馬集祀の伝来

 殺牛馬祭祀を考える上で、「日本書紀」皇極天皇元年(六四二)七月戌寅条に、戌寅、群臣相語之日、随村々祈部所教、或殺牛馬、祭諸神社。或頻移市。或頑河伯。既無所効。蘇我大臣報日、可於寺々転読大乗経典。悔過如仏所説、敬而祈雨。
とある記事に、まず注意する必要があろう。百姓たちが村の神主の教えに従い、牛馬を殺したり河の神をまつったりして、雨が降るよう祈願している。しかし、そうした祭祀には効果はない。そこで蘇我大臣蝦夷が、読経によって、仏に雨を祈ることとした。
 「書紀』は右の記事に続いて、蘇我大臣の仏への祈願で小雨が降ったが、必要な雨量に満たない。そのため天皇が天に祈ると、大雨が降ったという記事を載せている。
 とにかく、右の記事によって飛鳥時代に、殺牛馬祭祀が行なわれていた事は確かである。
 考古学的には、殺牛馬祭祀は古墳時代後期にまで、さかのぽることができる。
 神奈川県の蛇切遺跡は、六世紀末~七世紀初めの頃の遺跡で、右で囲んだ直径一・四mの土壙の中央に、西向き・仰向けに埋納された牛頭骨があって、両角・下頓部は失われていた。牛頭骨の上や周辺から、集りに使われた甕や杯などの土器が多数発見された。
 この遺跡から、牛を殺してその頭部を神に牲として捧げ、胴体は解体されてその肉は祭りに参加した人々が、直会したことが知られる。
 牛と馬を食べ比べた場合、牛の方がうまいので、直会を伴う殺牛馬祭祀はいつしか、牛中心にかたよっていったと考えられる。牛がいれば牛を殺し、馬は牛が手に入らない時の、代用とされたと考えられる。
 柁切遺跡の発見によって、古墳時代後期には殺牛馬祭祀は日本に伝えられて、広く行われる事となり、飛鳥時代に至っても盛んだった・その祭祀は祈雨と結び付き、農村にとって死活を意味する重要な祭礼となったことなどがわかろう。

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