明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年3月28日土曜日

獣医仮免状下付出願手続

山口県達類纂・馬場壽槌編纂。第九類・勧業。四十七頁から。
○獣医蹄鉄工
◎獣医仮免状下付出願手続二十三年九月十三日県令第四十七号
獣医仮免状下付出願手続左ノ通相定ム但明治二十一年九月本県令第七十九号獣医仮免状下付出願手続ハ廃止ス
   獣医仮免状下付出願手続
第一条 獣医ニ乏シキ地方ニ於テ仮ニ獣医ノ業ヲ営ントスル者ハ甲乙書式ニ倣ヒ願書ニ履歴書ヲ添ヘ郡市役所ヲ経テ常庁ヘ差出スヘシ
第二条 獣医仮免状区域内ニ於テ獣医免許規則第二条ノ資格ヲ以テ免状ヲ得タル獣医ノ新ニ開業スル者アルトキハ免許年限中ト雖モ仮免状ヲ返納セシム但実地ノ情況ニ拠リ免許年限中継続営業セシムルコトアルヘシ
第三条 仮免状下付ヲ出願スル者アルトキハ郡市長ハ獣医欠乏ノ地ニ限リ区域ヲ定メ其地勢廣袤牛馬頭数及営業年限等丙号書式ニ拠リ取調意見ヲ具シ願書ト共ニ進達スヘシ
  甲号書式(正副二通一通ハ美濃紙一通ハ半紙)獣医仮免状下付願
             住所(寄留ナレバ本籍ヲ併記スベシ)
              属籍
                氏名
                  年月日
私儀何郡(市)何町(村)何番地ニ於テ獣医営業仕度候間仮免状御下付被成下度別紙履歴書相添此段奉願候也
  年月日            右氏名印
     農商務大臣宛
                 右市(町村)長氏名印
  乙号書式(用紙仝上)履歴書
                氏名
                 何年何月生
                 当何月何年何ケ月
一何年何月ヨリ何年何月マデ何学校或ハ何ノ誰ニ就キ何々修業
一何々
右之通相相違無之候也
  年月日           氏名印
  丙号書式 獣医仮免状下付願調書
             住所
              属籍
                氏名
                 年月生
営業区域何郡(市)一円又ハ何郡(市)ノ内何々町村
区域内地勢ノ嶮夷
同 広袤
同 牛馬頭数
営業年限何ケ年
開業獣医居住地ヨリ右区域境界マデノ最近距離
◎獣医ノ外牛馬の剪刺ナラサル件十九年三月十三日甲第三十三号
従来牛馬医ナル者牛馬ヲ集メ蹄剪刺絡等ノ術ヲ施シ来候處客年八月第二十八号公布実施ノ上ハ右蹄剪刺絡共獣医ニ非レハ施術相成ラス

博労と穢多

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定替相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取置侯所、
日切二至り代銀不時之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩エ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙二書附置申之由
侯へ共甚不謂儀侯条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭エ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯歟又ハ最前之牛馬差戻シ僕歟いつれ之道埒明可申候、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯歟、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相咎侯、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外エ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人エ売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二付、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主エ差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
侯事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 (市川)

えた 穢多 準戸に属する階級の一つで、宮番と共に少人数(集
中しているところもある)ではあるが、藩内諸所に分散居住してい
る。穢多の呼称は藩制中期以後の文書にはかなり散見するが、藩制
初期の文書に、当職より山口宰判垣之内の吉左衛門に対して、支藩
を除く防長両国の皮屋役を申付けるという令書があり、垣之内は穢
多部落であってこの頭取りに南国内の皮革差配を申付けたものであ
ろうが、この文書には穢多という言葉はない[注進案山口宰判]。
これらによって、穢多なる呼称は身分制度の確立する中期以降に多
く使用されたのではないかということを考えさせる。中期の法令
に、穢多は皮類の商買をするのがたてまえであるのに、平人同様に
牛馬商を営む者がおり、これは違法であるので禁止するとある[四
冊御書付]。地方によって農耕に従事する部落もあるが、皮革製造
以外のことに手を広げることは出来なかった。皮革は武具の主材料
であるため、藩府は部落の規模に応じて特牛皮を上納させ、これが
部落単位の貢租となった。又一門等の重臣層も自己の知行地に穢多
の部落をおき、武具製造に従事させている。萩玉江の稜多頭椿権左
衛門は、元旦に城門を開ける役目をしたが、これは元旦の御門開き
に犬猫の死骸があれば不吉のため、掃除するために置かれた役が固
定化し、元旦の城門開きを行なうことにより吉相を祝う者となった
と伝えられている[殿様時代の話]天保二年の百姓一揆には、多
くの穢多部落が一般農民から打毀しにあっている。   (広田)
守貞漫稿にある人曰く、えたはえとりの訛言なり。屠児をえとりと訓
ず。訛りてえたと云う。穢多の字は強附ならん。京師非人の長は非田院
長吏なり。諸国の非人および穢多の惣長なるべし。ただ関八州のみ浅
草弾左衛門、これが長たり。 

和漢三才図会 乞食こつじき・かたい 摂州天王寺の庄・非田院、洛
外の非田寺は乞食の居住区。頭は長吏。区域外の者を非人という。
屠児。和名恵止利。穢多。旃多羅。ほふり。牛、馬、猫、犬を屠り、皮を剥ぐ
のを職業としている。

猿曳 猿回しとも云う。江戸は弾左衛門部下なり。江戸は猿曳甚だ多
く京阪は甚だ稀なり。扮は古手巾をかむり、弊衣を着し、二尺ばかりの
竹を携える。大名等に召される者は、羽織袴を着す。守貞漫稿 

和漢三才図会 巻第七 馬医は伯楽。博労とも。中国起源。


猿の駒引き民俗風習の世界から猿回しが家畜の治療を行なったとする説。徳川時代には将 軍が猿回しに厩のお祓い、安全祈願をさせたとの伝説。
ばくろうは午玄人。伯楽は博楽、牛馬の相を見分け獣医の資格を兼備していた。伯は長・頭 の意、楽は好む、楽しむの意から伯楽は敬称。
伯楽は博労に転訛。その後さらに馬苦労、馬苦郎、馬口労、馬喰どもと賎称化する
一、御入国之御時、御馬足病沓摺草被為仰付候、御馬為御祈祷猿引御尋之上、私先祖猿引召連罷出候得ば、病馬快気仕候に伐て、為御褒美鳥目頂戴仕候、御例を引毎年正月十一日、御城棟御厩より御判頂戴仕、御台所にて鳥目頂戴仕候、中古より西丸下御厩より御判頂戴仕、御納戸方より御鳥目出、只今に至迄頂戴仕候
                              

品部と雑色

●品部 しなべ

部は古語では「伴・とも」.氏姓時代の国家の政治・業務組織の称である部(とも・べ) ・部曲(かきのもと)の系統を引く.律令制下に雑戸とともに良民の最下層に位置づけら れる雑色(ぞうしき)階級が品部.氏姓時代の部曲(かきべ)は,国家や朝廷の編成していた宮廷官掌の部や特定手工業従事の部および農耕従事の田部などに対し,原則的に豪族私 有の部であったと考えられている.
 大化2年紀には「品部」という用字もあって,律令制下では,「職員令」図書寮の条の紙 戸,内蔵寮条の百済戸,雅楽令条の楽戸,造兵司条の雑工戸,鼓吹司条の鼓吹戸,主船司条の 船戸,主鷹司条の鷹戸,大蔵省条の狛戸,典鋳司条の雑工戸,織部司条の染戸,大膳職条の雑 供戸,典薬寮条の薬戸・乳戸,造酒司条の酒戸,園池司条の園戸,土工司条の泥戸,主水司条 の氷戸,左右馬寮条の飼部などが品部である.

●雑色 ぞうしき

【律令体制下の雑色】良の最下級身分で,農民同様に口分田の班給を受けたが調庸や兵役 を免除され,宮廷工房に上番したり在郷のままで手工業生産に従事して製品を貢納したり した品部(例:治部省雅楽寮に隷属した楽戸,宮内省造酒司に隷属した酒戸など)や雑戸 (例:兵部省造兵司の雑工戸,大蔵省の百済戸など)の民で,賤に近い扱いを受けた.律令 制が弛緩するのに伴い王臣・寺社の工房や荘園に流入して,犬神人や堂衆,散所民となる者が少なくなかった.

【貴族的王朝体制下の雑色】朝廷の官衙はもとより,御所や院,公卿家,寺社に隷属して雑 役に駆使せられた無位の下級役人.無位のため位袍の当色がなく,雑色の着服を用いたことによるとか,雑役勤仕によるとかいわれるが,雑色人の略称であり,呼称の所以は不詳.朝廷の雑色人は,布製狩衣仕立の着衣(色に定めなし)に平礼烏帽子(へいらいえぼし)を冠 ったが,その服装をも雑色と称した.王臣寺社の荘園に流入して,年貢所役を免除される代 わりに,領主経済に必要な手工業品の生産や狩猟,漁労,製塩,牧畜等に携わったり,年貢の 運輸や駕輿丁,清掃(浄め)などの雑役を負担して,散所供御人(さんじょくごにん),散 所雑色と呼称した者も少なくなかった.これらの雑色には,律令制下の品部・雑戸の系譜を引く者や,律令制の収奪を逃れた浮浪・逃亡に出自する者が多かった.

【鎌倉・室町幕府体制下の雑色】鎌倉幕府の番衆組織のなかで,侍・格勤・中間・小舎人 についで最下位に置かれていた下級番衆で,御使雑色,朝夕雑色,国雑色の3種があった.室 町幕府のもとでの雑色は身分がさらに低く下り,触状の使者・営中の雑役・道路の清掃・ 行列の警固・先走りなどに駆使され,足軽,走り衆とも呼ばれ,やがて一般の家僕・下僕も 雑色と呼ばれるにいたった.

【京都所司代に隷属した四座雑色】室町時代末期から江戸時代にかけて,京都所司代の手 先となって市中取締りに当たった四座の雑色があった.五十嵐・松村・松尾・荻野の四氏 をそれぞれ上雑色として,四条室町を基点に市中を四方角に区分してそれぞれ分担し,下部組織として下雑色8名,見座2名,中座12名および最末端に穢多・非人をおくもので,禁裏は もとより門跡・摂関家をはじめ,将軍・幕府役人らの邸宅警固や市中往還時の警備に当た ったほか,布令の伝達,宗門改めの際の検査,訴訟の進達や刑場の立会い・祇園祭の管理,祭日や縁日の取締り,芝居など興行の取締り等,のちになって町奉行所の任務に相当する行政・司法・警察治安などの広範な業務に携わる半官半民の組織であった.

犬養、馬飼、鳥飼、鷹飼、鵜飼、

漢字は四世紀末から五世紀初めに朝鮮半島から渡来してきた人々によって伝えられた。こ の人々の末裔が史(ふひと)で、大和王権の記録を漢字で表記した。帝紀や旧辞の記録を元に紀記が編纂された。

朝鮮半島からの渡来人
4c末~5c始め 応仁・仁徳朝
5c後半 雄略朝
6c末~7c始め 推古朝
7c後半 天智朝
8c 奈良朝

殺牛馬祭祀

殺牛馬祭祀

古代の日本に牛や馬を殺して、いけにえとして捧げ、雨が降るよう祈る、祭祀があった。
 殺牛馬祭祀は、古墳時代後期にはすでに日本に伝わっていた祭祀で、帰化人によってもたらされて次第に各地に広まっていったと考えられる。特に、神奈川県の柁切遺跡と山口県の周防国府跡は、殺牛馬祭祀を考える上で非常に重要である。
 また、平城京をはじめ各地から土馬が発見されているが、土馬による祭祀は殺牛馬祭祀の延長線上にあると思える。
 殺牛馬祭祀は古墳時代後期に始まり、奈良・平安時代を通じて盛んだったが、その間には時期的変質があったと思える。
 丑年生まれの桓武天皇は牛の殺されることを嫌って、たびたび殺牛を禁止する法令を出しているので、そのような禁令や祈雨の社としての丹生川上神社の成立などによって、殺牛馬祭祀も変質をきたしたと考えられる。
 
   殺牛馬集祀の伝来

 殺牛馬祭祀を考える上で、「日本書紀」皇極天皇元年(六四二)七月戌寅条に、戌寅、群臣相語之日、随村々祈部所教、或殺牛馬、祭諸神社。或頻移市。或頑河伯。既無所効。蘇我大臣報日、可於寺々転読大乗経典。悔過如仏所説、敬而祈雨。
とある記事に、まず注意する必要があろう。百姓たちが村の神主の教えに従い、牛馬を殺したり河の神をまつったりして、雨が降るよう祈願している。しかし、そうした祭祀には効果はない。そこで蘇我大臣蝦夷が、読経によって、仏に雨を祈ることとした。
 「書紀』は右の記事に続いて、蘇我大臣の仏への祈願で小雨が降ったが、必要な雨量に満たない。そのため天皇が天に祈ると、大雨が降ったという記事を載せている。
 とにかく、右の記事によって飛鳥時代に、殺牛馬祭祀が行なわれていた事は確かである。
 考古学的には、殺牛馬祭祀は古墳時代後期にまで、さかのぽることができる。
 神奈川県の蛇切遺跡は、六世紀末~七世紀初めの頃の遺跡で、右で囲んだ直径一・四mの土壙の中央に、西向き・仰向けに埋納された牛頭骨があって、両角・下頓部は失われていた。牛頭骨の上や周辺から、集りに使われた甕や杯などの土器が多数発見された。
 この遺跡から、牛を殺してその頭部を神に牲として捧げ、胴体は解体されてその肉は祭りに参加した人々が、直会したことが知られる。
 牛と馬を食べ比べた場合、牛の方がうまいので、直会を伴う殺牛馬祭祀はいつしか、牛中心にかたよっていったと考えられる。牛がいれば牛を殺し、馬は牛が手に入らない時の、代用とされたと考えられる。
 柁切遺跡の発見によって、古墳時代後期には殺牛馬祭祀は日本に伝えられて、広く行われる事となり、飛鳥時代に至っても盛んだった・その祭祀は祈雨と結び付き、農村にとって死活を意味する重要な祭礼となったことなどがわかろう。

散所について

さんしょ・散所について

『中世賤民と雑芸能の研究』盛田嘉徳・平成6年2月5日.雄山閣出版の第三章に「散所に関する研究の変遷」がある.中世賤民の主流は河原の者と散所の者で,他に谷の者・芝の者・道の者・巷所等がいるとされる.さんしょ・さんじょとは散所,産所,算所,山所,山上,三所,三条,山庄,山升,山桝,山椒とも書く.森鴎外の山椒太夫の山椒はこの山椒である.享保十九年の「近江輿地志略」には産所村があると述べている.さんしょ・さんじょは一般に散所と書くがこの散の意味は散田の散と同じである.また,産を穢れとして村の外で出産した事から産所の名が出たともされる.中世の散所身分は良と賤民の中間以下の身分である.
第二章は賤称語源考で鷹の餌を集める職務から餌取りと称せられる人々があったと述べている.
第四章の「長吏法師考」には荻生徂徠の「南留別志」にゑたを長吏といふ,張里の誤なるべし,ばくらうといふも伯楽の誤なるべし.
鎌倉時代の書写(推定)「節用文字」に張里・ムマクスシ
文安元年(1444)の「下学集」に馬口労・バクラウ
天正頃「伊京集」に伯楽・ハクラク・馬医師
文安三年「壒嚢鈔」に馬薬師(ムマクスシ)をハクラクと云伯楽と書く.文選には張里をムマノクスシと詠めり.天文年間の「塵添壒嚢鈔」にも同文あり.
弾左衛門由緒書に御入国之御時,御馬足痛・・・とあり.
 

愛媛県の獣医養成

玉井豊著「愛媛篤農伝」愛農刊行会(松山市下伊台町)発行・昭和四十四年。愛媛県の獣医養成 愛媛県仮病院を明治八年に松山小唐人町(今の東雲高校)に移転し、『松山病院収養館』とし、西洋医学による医師養成の医学校を開くが、明治 十九年には廃止となる。その後、医学校の跡に、宇喜多秀穂が獣医学講習所を設け る。講習生四十名。明治二十年十二月文部大臣認可の『愛媛県立獣医学校』となる。明治二十五年廃校となる。卒業生百十余名。飯尾平太・獣医講習所卒業。元治元年一月二日、今治市国分・旧越智郡桜井村大字国分に生まれる。明治二十年頃り、昭 和二十三年頃迄診療に従事。子息秀雄、孫満雄、二朗、弟新太郎、甥豊も獣医師。 

2009年3月27日金曜日

開田村郷土資料館所蔵「馬痾癒秘伝」

開田村郷土資料館所蔵「馬痾癒秘伝」

馬えとかいの事
一、春はきのへきのと病大事
酢きものをかふへし
巳の時なおるなり
一、ひのへひのとにハ酢きもの
あまきものにかきものかふ
へし卯巳の時なをる
一、仝つちのへつちのとには
にかきものかんざうかふ
へしよく治るなり
一、仝かのへかのとにハ塩を

かふへし未辰戌の
時なおるへし
一、仝みつのへミつのとには
酢きものをかふへし
あまき物必へし申酉
戊の時なおるへし
一、夏ハきのへきのとには
にかきものをかふへし
あまきもの必なり戌寅
卯巳の時なおるへし
一、仝ひのへひのと大事也

人しんかんさう酢きもの
かふへし塩ハ必なり
巳午丑未の時になおる
一、仝つちのへつちのとには
にかき物をかふへし
からきものもよし巳午
未辰戌の時いゆる也
一、仝かのへかのとにハあまき物
かふへしにかき物必也
一、仝みつのへミつのとには

すきものをかふへし
あまきもの必也但し申辰
一、かうらい薬の事
一、茯令 一、かんざう 一、かきからの玄
一、人参 一、くしん 右何東分
合セ事馬の病四キ四セ
んを     馬した
にぬるへし
一、かうらい薬万病療也
きしの足玄焼かきからの
玄焼東分合くしんごしつ

すみつ少加へ味噌を丸事
薬中へかうらいのこうよく
す つヽ入事三粒ほと
かふへし馬の乗すくミ
いきあひものくいにらミ
するものによし
馬の危事立つあり
鼻より血の出る事はいの
病也かく連のはり事足
の形也股の内かさをなす
事かんのはつらひ也

しさうのかたち家の馬なら
ハ一さう立み事かうて五十
日の内ニたつへし
人の馬ならハ養生すへ
からす一しさうてん三の事
とうきのあらはいせんこの

きのあらはい三つヲいふ也
合やうに口伝あり四き是に
鼻より血出すハあき一さう
さんミヲかふへし脹の内ニ
かさなすハはるの一さう
さんミをかうへし五十日の内

たつへし
  馬の目薬の事
一、柳 一、えんせう 一、明ばん 
一、わうへき何も粉
にしてさす此薬あん
き第一の秘伝也
  ねつひ事ないら薬也
一、のさらし中 一、かきから中
一、白にしのから大 一、土りう中玄
一、たいおう中 一、せんたいおう中侭
一、くしん中 一、唐おしろい少まし

一、しやかう少 一、くこ少
右九ミを合
ないら薬事
一、茯令一セン 一、おもと一セン
一、やまもも一セン 一、天南生一セン
一、      一、烏瓜三セン
 右五味酒にて用へし
  右同薬
一、こせう一セン 一、やまもヽ二セン
一、ふくりう一セン 一、かんざう一セン
右四味酢ミつ用ゆ
へしたり

 十二ないらのぬく薬
一、黒竹玄 一、いのこつち
一、烏瓜 一、蒲根
一、逢根 一、ふなはら
一、しんぶくりう 一、松の緑
一、杉の緑 一、にらの根
右何れも粉にしたる但し
黒竹三ト入て濁酒味噌
塩入て一日ニ二度ツヽ但一度ニ
五 ほとつヽかふへし
一、馬のいさミ薬に夏螫

の糞を七日酒にひたして
是粉にして用へし秘伝也
一馬の形冷熱の見様事
熱ハ舌乾き脉つよし
但し  に脉あり
うちまたあおく後足赤
はるなり又ひえの馬の舌
ぬれたるハ脉しづむ
なりつねの  たつへし
ないらの馬ハした根熱なり
眼にやに少出るなり
馬の方ニ心口の事

一、正月丑子 一、二月丑卯 
一、三月卯巳 一、四月申酉
一、五月午寅 一、六月戌巳
一、七月亥巳 一、八月戌子
一、九月丑辰 一、十月丑巳
一、十一月戌子 一、十二月卯寅
右時ニ療治すへからす
 馬五性の事
一、青あし毛 金を必 木性 此性庚申辛酉の病大事
一、栗毛ひばり毛 水を必 火性 壬子癸卯丑の病大事也

一、  毛かすけ 木必 土性 甲乙卯辰巳の日あしし
一、二毛くろ毛 土必 水性
  病時は日性ヲ知ル事エトの性たり
一、卯辰巳日と時木性   馬の性日
             ヲ見テ相克
一、午の日と時      ヲ見ベシ
             相克ナらハ
一、酉戌亥日時金性    大事と見
             ルへし
一、未申 丑日時土性   なホりよし
一、子の日と時水性
日の性はハイヘスエトノ性次第ニ見合テ可也

右時の性と馬の性トヲ
看合テ相性相克
総体見て療治すへし
  馬病陰陽を知る事
病北ヨリ来  あし毛陽
一、丑卯日時ニ 但しとちハ陰也
仝東ヨリ来ル  くり毛は陽
一、巳午日時病  ひバリ毛陰也
仝南より来ル  つき毛ハ陽
申酉日時痾   かわら毛ハ陰也
辰の日病春東より来丑ハ冬北より
来ハ病南より来
丑未辰戌の時  かけハ陽也
        さるけ陰也

一、亥子日時病  くり毛陽
         二毛陰也
陽の馬ニハ左に病あり
陰の馬ニハ右ニ病ありと
しって療治すへし
右四季による事五形
如病也
  馬の形時時知る事
一、丑時病馬ハ 申時痾ツク
一、巳午時ニ痾 亥子時病ツク

一、丑未辰戌時病 卯時痾ツク
一、亥子時病ハ 丑未辰戌時病也
としるへし相尅病時ハ
大事なり
      十一月  三  七  庚辛
一、木性馬  沐    襄  絶  酉戌亥
      子日         申日大事

      二    六  十  壬癸子
一、火性馬  沐    襄  絶  之日大
      卯    未  亥  事也

      八   十二  四  申乙戌巳卯
一、土水   沐    襄  絶  壬癸大事
      酉    丑     子日
                 巳辰乙丑刀未
                 甲之日
      五   九   正  丙丁
一、金性   沐   襄   絶  午日
      午   戌   丑
    陽乾戌亥  陰坤未申
    仝坎子   仝離午
陰陽二 艮丑    仝兌酉
    仝震卯   仝巽辰巳

馬ヘヲヒリタレルハコクチウ云虫也
此薬にハいわう十二匁ねぶか
の白根ヲ手一束ニ十二把味
噌をこく入薬ホとせんし
白ら根を一味ニせんし
七日かふへし虫イノフニ有
ふんに虫阿る物なり
  妙香散馬ニ熱薬也
一、甘草  一、茯苓   一、にんぢん
一、ここう 一、めうこう 一、おばこの根

一、川弓 一、こせう 一、ホうり三つ
一、せんたいこう 一、なんもつこう
十一色何れも粉にして東分
合セ塩少入て度々かふへし
  長命丸
一、忍ぢん 一両 一、ちんかう 二両 一、甘草   一両
一、おんし 一両 一、とうき  二両 一、あひのは 二両
一、おわう 二両 一、ぐつのこ 一両
右何れも粉にして○是
ほどに丸くして酒にて

もゆにても用へし
人の産後産前によし
惣し事虫分によし
馬にハ熱薬吉
 はなれ馬留むましない
 以下呪唄につき略
 血止の薬
足毛馬のふん
血とめの妙薬也