明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2009年4月7日火曜日

陸軍獣医志叢第十二号

陸軍獣医志叢第十二号
学会記事[飾り枠]
論説[飾り枠]
○獣医の古説
 本題は我が深谷陸軍獣医監殿の内国獣医公会に於いて演説せられたる者にして今左に其の大意を筆記す
明治聖代の御徳に浴し図らずも在京各地一百余名の獣医諸君に親しく面陳するを得るは近来未曾有の盛事にして我が老孱の身も為に奮いて一言せざるを得ず元来本邦の文物は何事に寄らず多くは外国より輸入せるものなれば其の始原に遡り西洋古代の事跡を述べ続いて本邦獣医の事に及ぼさんとす           
                         一[枠外]
                         二[枠外]

西洋古代の獣医は其の時代を大別して三段とす第一祈祷第二旧例実験第三学理実験なり往古蛮民は酋長の老者医をなし家僕或は牧夫の長獣医をなすが故に中古迄獣医を賎業として人の避くる処となる其の後僧侶獣肉の検査に兼ねて祈祷の方を以て獣類を治療せり紀元前四百六年より三百十年間の間希臘の末代に医学の始祖と崇むる「イポクラット」氏は人体及び獣躬に医療を施し従前僧侶の祈祷に属する秘密なる医学を看破し専ら実際に従事し病の兆候を明かにし比較病理書を著し医薬は自然の良能を助くるのみにて淡白のものを用いたり紀元後四十年に「コリユメール」氏は十二巻の書を著せども鬼神に関するの説多し然れども疫病獣を隔離し寄生虫病を発見し刺絡,去勢術,断骨に副木を行ひしは古代中の美事なり羅馬「ジヲクレチヤン」帝の時,紀元三百年代(我応神天皇の御宇)動物治療謝儀一定の制度あり以て獣医人員の多きを知るに足る且つ軍隊に始めて獣医を附す今尚ほ古代の病馬厩を存ず当


時蹄鉄の業茲に始まる羅馬の獣医は家畜を治療し加之,縦覧に供する猛獣の保護を担任す第一世「コンスタンタン」帝の時,膳羞に供する肉を検査せん為め所々へ獣医長を置く紀元四百年の頃(我大化前百八十年雄略天皇の時)「アスシルト」氏は第一世「コンスタンタン」帝「サルマツト」国を討伐するとき獣医の職を以て従軍し大功あり同氏は咽喉炎,呼吸障碍病と肺の結核症とを区別し間欠性眼炎,蹄炎,蹄充血,強直症及び先輩の確定せざる諸症を説明し蹄組織の潰瘍「クラッポー」か裂蹄,鼻疽皮疽馬腐敗病炭疽病歟の伝染性たるを識別し之に隔離を命せり当代の世人医を尊び獣医を賎しむを憤り獣医をして他の学者社会と並立せしめたり且つ不開化の時に在りて最も嘆賞すべき処方は温湯を強直症に命し冷水を膣部の捻転症に施し創傷に縫合法を行ひたり
是より本邦獣医の事に移らんとす今を距る凡そ千百余年前(西洋紀元凡そ七百八十年)我が桓武天皇御宇延暦の昔,肥後の人,硯山[スズリヤマとふり仮名]左近将監平仲国入唐
                
                         三[枠外]
                         四[枠外]

して彼国元貞年間大延なる者に就き馬医の業を受け多年留学し帰朝の後,男安国弟子生田備中守道義等に伝へ門弟日に加はり諸国に分在す其後六百余年を経て慶長の頃,桑島政近心海と号する者仲国流伝の末流を浥み実際治療を以て当時に名あり門人最多く自姓を馬医の流名と定め皆伝卒れば桑島姓を與ふるを例とせり是れ即ち馬医桑島の流祖なり其頃那須の人,岡本宮内少輔の裔,岡本勘右衛門忠清心海の門に入り肄業の後,流名を受け姓を改め(徳川幕府馬医桑島氏の祖)師に代て業を続ぐ孫桑島忠直に至り父祖の業を修め且つ調馬に長ずるの聞あるを以て延宝八年徳川五代将軍綱吉徴て禄百俵を與へ御召御馬預り兼馬医に任じ新に麻布市兵衛町に官邸を賜り配下若干を附せらる勤労浅からざるを以て天和元年六月更に高百俵を加増し世襲二百俵の禄を與へ旗下に列す男忠陳馬術劣等なるや御馬預りの任を解き馬医に専任せらる永田馬場官厩に鶴見氏馬医の職を執れども馬術に


熟達し由て御馬預りに栄転して久保町官厩に移る文政天保の間,西丸下御厩に都甲斧太郎なる者あり調馬に馬医を兼任す氏は好て和漢の書に通じ蔵書数千巻晩に蘭学に志す当時切支丹宗の禁あり故に蘭学に憚りあるの際なるを以て諸人に排斥せられ且つ品行不正の旨を以て遂に御書物同心に貶せらる其頃落合十郎左衛門徴されて幕府馬医に任じ高百俵を下與し旗下に列せらる下與市右衛門若林忠蔵稲垣馬司の諸氏,陸続輩出すれども皆漢土伝来の馬療書に基き師伝来家方の治法を加ふるのみ独り菊池宗太夫は晩に蘭書を学び其治療を為す他の比に非らず然れども老齢に至り時々精神病を発し遂に非命に陥ると云ふ文久年間予幕府の馬医に補せられ洋書の獣医に益あるを信じ開成所に於て該書を学びしことあり当時桑島左近の発意に依り予も共に協力し江戸市在開業獣医を集合し日吉山王社家町福寿院に於て一二の事を議せんとせしが応ずる者七八名に過ぎず僅かに二十八九年を歴て今日此盛会

                       五[枠外]
                       六[枠外]

に遭ふは寔に夢裡の憶なり
終に臨て尚ほ一言せん即今陸軍々馬全国合せて凡五千五百余頭あり在職獣医五十八名近衛各師団に獣医長を置かれたり時に臨み兵馬を動すに方りては之に倍するの獣医官を要すべし若し一朝命あらば全国獣医諸君は我が陸軍獣医官の任を奉じ山野に起臥を同くし相倶に職を執るも計るべからず然らば則来会諸君は朝野の別なく各其所在に於て常に陸軍獣医官と交通し互に知識を交換し業の進歩を計んことを是れ周三が切に諸君に希望する所なり
(喝采)

四辺子持ち枠,大きさ16.6cm×10.8cm,行三十三字,丁(頁仕立て)十二行

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