明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2011年12月10日土曜日

改訂日本古代家畜史

改訂日本古代家畜史
著者は鋳方貞亮.発行所有明書房.昭和五十七年発行.原書は昭和十八年脱稿,同二十年発行.参考文献は古事記,日本書紀,風土記,三国志に旧帝国大学の発掘報告書の類.戦前の考古学であるから,文系の歴史学の分野である.理系のものとしては唯一コンラット・ケルレルの「家畜系統史」を引用するが,この書は西洋の家畜の系統について述べたもので,日本・東アジアの家畜については殆ど記載がない.(家畜系統史 コンラット・ケルレル著・加茂儀一訳.岩波文庫1176-1177) 貝塚から牛馬の骨が出土する説の基となる書である.

2011年12月9日金曜日

獣医学概論・池本卯典,小方宗次編 文栄堂 2007年

第二章 獣医学の歴史 で小佐々学は平仲國と仲國流馬医術を述べるが内容は誤り.元亨療馬集を元享療馬集とするも誤り.山口農学校を山口大学の前身とするも誤り.山口大学農学部の前身は専門学校令によって設立された山口獣医畜産専門学校で,山口県農学校は山口県立山口農業高等学校の前身.

2011年5月14日土曜日

藤村忠明先生は大正十二年に東京帝国大学農科大学実科に入学

  着想 と そ の 実現
                藤  村  忠  明

 馬の蹄に蹄鉄を打ちつける釘と云えば、スエーデンのオーマスタット
市にある、王冠印蹄釘会社の製品が、世界で一番良く、アメリカにもあ
るコウベルという会社の製品があったが品質が悪くて使いものにならな
かった。勿論日本でも、戦時中の輸入の杜絶を考慮して陸軍で研究試作
していたが、良いものが出来ないので日本蹄釘は、全部王冠印の輸入品
にたよっていたのである。あんな簡単な蹄釘が、どうして出来ないので
あろうか、それは形は出来ても釘としての具備すべき条件が整っていな
いからである。
 その条件というのは第一に一定の物体に打ち込む時、腰が曲らないで
真直ぐに突き抜けること、即ち鋼材に適当の硬度が必要であるというこ
と。第二に、打ちつけた釘に何万回もの、強い衝撃を与えても折損し
ないという鋼材の靭性との二つの特性を持たなければならないことであ
る。鋼材の硬質と靭性は相反する性質で、硬度が増せば敵性がなくな
り、靭性が増せば硬度がなくなるものである。王冠印はその調和が誠に
良くとれているが、他の製品は腰が弱くて、貫徹力がなかったり、貫徹
力はあっても脆くて直ぐ折損したりして、用をなさなかったのである。
 こうした品質の差が、どうして出来るかということについて、色々と
論議され、先ず鋼材の材質の問題が取り上げられたが、之は我が国の最
高の製鋼技術をもって、スエーデンのそれと同一のものを作り上げ、之
を原料として釘を製作して見たが、やはり良質の釘が得られなかった。
結局造釘技術の差によることが明かとって、陸軍の優秀な技術者を優々
スエーデンに派遣し、造釘技術を研究せしめようと試みたけれども、日
本は蹄釘を買ってくれる、良いお客さんで、ある町から大変なもてなし
は受けたが、工場内には一歩も入れてくれなかったので、その試みは悉
く失敗に終ってしまったのである。
 凡そ或る会社や工場の秘密を探る方法として、正面攻法で、その社内
に入りこんで、スパイ行為することは手っ取り早いことではあるが、な
かなか実行が困難である。然し合法的なやり方としては会社や工場か
ら出る紙屑やスクラップを買い受け長時間丹念に整理検討を加えて行け
ば、完全にその内情を探知することが出来るものである。そこで私は支
那事変中にスエーデンから輸入された、蹄釘一億万本について、精密に
点検した所、その中からスクラップ同様の出来そこないの蹄釘約三百本
を発見したのである。
 之を原材料に近いもいから、順次製品に近いものへと製作工程順に配
列して見た所、誠に面白い結果を得たのである。特に機械専門の技術者
を入れて、検討を加えた結果、次の四工程で出来上ることが明かとなっ
た。
1丸いワイヤーロットから角線を引いて原材料としたこと。
2その角線をへッターにかけ釘の頭部を作りアニール (冷間加工に
  よって硬化した鋼材を七五〇℃以上に加熱放冷し元の硬度に返す操
  作) をかける
3次に46回ロールにかけ釘身を延長する。
4大体の形の出来た材料を、最後にプレックスにかけ、整形と付刃
  をする。
 そこで私はリベット、モクネジ、レールの犬釘、硬貨製造装置等の蹄
釘製造に似かよった製品を作る、あらゆる大阪の工場を視察しへッタ
ー、ロール、プレッス、について適当と思われるメーカーを探し出しそ
の機械工学の専門家に対し蹄釘製造の工程を説明し、三種の機械を夫々
の専門技術者に依頼、設計試作せしめ、之を総合運転した所見事成功し
た。そこで大阪南河内郡狭山村に工場を設立し、世界に誇る最優秀の蹄
釘を生産するに至ったのである。
 吾々の様な全くの素人でも、良き着想さえあれば、それから先は優秀
なあらゆる専門技術者を動員して、如何なる難事でもやりとげることが
出来るという確信を得たのである。
 私は過去二つの機械の考案と、十四編の研究論文を書いたが、何か新
しいことを発見してやろうとして、特別の努力を払ったことは一度もな
い。只々日常の自分の仕事を正確に整理し、その記録を作って、之を累
積して行っただけのことである。その中から新しい工夫も理論も、生れ
て来るわけであって、空くじの様な奇蹟的な幸運が、決して訪れて来る
ものではない。
 私の論文に『家畜の挽曳の理論に関する研究』というのがある。之は
終戦後六年間の追放生活中農業をしている時、終日牛の後を追って、田
を耕している間の着想で、過去における先輩の研究業績と全く相反する
ので、その力学的実験を何回となく繰返しているうち、どうしても自分
の着想が正しいことを確認したので、数学の専門家の力を借りて、その
実験成果に検討を加えた所、立派な力学の公式が産れ、役畜の体格を測
定した諸元をその公式にあてはめ、挽曳力を正確に算定出来ることに成
功したのである。
 世の中が進歩するにつれ、自分独りの力だけで何もかもやりとげるこ
とが困難となって来るから、その道の専門家を利用し完成することが大
切である。
 要は諸兵指揮官としての才能を平素より十分に養い、之を活用するこ
とが成功の鍵であることを述べるため、敢えて筆をとった次算である。

       お  も  い  出

                  藤  村  忠  明

一、最も苦痛であったこと。
    上級生に対し停止敬礼。
二、最も恐ろしかったこと。
    ひる休みに毎日のように化学教室に招集がかかり、上級生から
    意味なくなぐられたこと。
三、最も嬉しかったこと。
    なぐられ友達の優等生藤井芳雄君が弁論大会で『公正』という
    題目で(上級生を多少批判)優勝したこと。
四、最も感謝していること。
    獣医科主任岩朝庄作先生から慈愛あふれる課外指導を受けたこ
    と。大正十一年卒業生三名、十二年一名、東京大学の実科へス
    トレートで入学)
    大正十二年 獣医科卒
    医学博士 山口大学講師  山口農業高等学校創立八十年記念誌より

2011年5月8日日曜日

有隣堂・家畜年齢図説

明治十九年版権免許.初版二十年.四版は明治三十四年七月十日発行.定価金二十銭.

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2011年1月27日木曜日

執筆中・「家畜医範」の研究原稿

家畜医範の研究
書物の形態
表紙と大きさ,紙
書物の大きさは縦鯨尺の五寸五分,幅鯨尺の四寸,和綴じの書物で,表紙の色は黒に近い濃い茄子紺.題簽は家畜医範○○学 数字巻幾つと印刷されている.
紙は上質の和紙で一部に洋紙が使用されている.我が国で木材パルプによる洋紙生産が始まるのが明治二十二年であるから,書物に使用されている洋紙は,それ以前の木綿を原料としたものと考えられる.大正八年の「日本案内」には『江戸川の辺には流水を利して,製紙の業を営むもの多く,江戸川紙の名産あり.江戸川製紙合資会社 製品概目 半紙,美濃紙,印刷用紙,鳥ノ子紙,書簡紙・・・』とある.英国人技師の指導下に機械による洋紙生産が始まるのは明治七年の「有恒社」からで,翌八年には「抄紙会社」現・王子製紙が生産を開始する.明治初期に洋紙が必要となった原因は,大量の「地券」発行のためで,その後西南戦争による新聞発行部数の激増が拍車をかけた.

書物の体裁と版の様式
家畜医範巻一は解剖学一で,表紙の裏側,洋本の様式では『見返し』になる部分は黄色紙が張付けられ,

駒場農学校獣医教師ヨハ子ス、ルードウ井ヒ、ヤンソン校閲
駒場農学校助教獣医学士田中宏纂著
解剖学一
家畜医範                巻壹
農商務省農務局蔵版 
とある.  
その次は洋本の様式では『ノド』になる半丁の洋紙で,左肩に家畜医範 中心に農商務省蔵版の曲尺の二寸の方印が朱で捺されている.裏には何も記されていない.この丁を拡大して詳細に観察すると,左肩の四文字と枠はインクによる凸版印刷で,方印の周囲の飾り枠は凹版で印刷されている.この凹版印刷技術は明治八年に紙幣印刷用の技術としてイタリア人のキヨソネから我が国の造幣局に伝えられたものである.
本文の版の様式は,四辺子持ち罫,匡郭の大きさは毎丁鯨尺の四寸・六寸で本文は半丁十行,行二十字.序文の部分は匡郭同寸で半丁七行,行十五字である.版芯は家畜医範 魚尾となっている.
第一丁は農務局長兼駒場農学校長従五位勲六等岩山敬義の記した序文である.序は三丁で,その後に本文と同じ書式で凡例が二丁,更に総目次が七丁,例言一丁,目次九丁があって解剖学の本文が始まる.
本文の印刷様式は伝統的な墨摺りで,行二十字であるから文字の大きさは丁度鯨の二分角の大きさ・すなわち『初号木活字』版となる.「家畜医範」出版当時,金属活字・油性インクによる活版印刷は既に汎く普及していたが,この技術は洋紙を用いた,大量印刷に適したものである.これに対して,古くからの伝統的な和紙・整版・手摺りの出版物は,長期の保存に耐えて来た実績がある.「家畜医範」の表紙の下張りには,有隣堂で出版した農業書の校正原稿などが使用されているが,これらの中には金属活字油性インク印刷のものが殆どである.
巻一の本文は百四十四丁で,刊記は明治十九年十一月十六日版権届,同二十年六月出版,農商務省農務局出版とある。発兌は有隣堂・穴山篤太郎である。 
穴山篤太郎(あなやまとくたろう)・初世     ?~明治15年7月30日(?-1882)
有隣堂創業。号、竹史。郡山出身。明治7年(1874)有隣堂を創業。農業書を多数出版した.業界が未分化の時代で当時の他の出版社と同様に、書店・古本屋・取次店を兼ねていた。
篤太郎は、2世・3世・4世と続く。墓は、谷中霊園 甲9号16側。写真、2世(?-明治24年3月19日)。3世(?-大正8年3月27日:号、芳水)。4世(明治17年~昭和2年10月25日)であるから,「家畜医範」は二世の時の出版となる.有隣堂の場所は京橋区南伝馬町二丁目十三番地とある.明治時代の地図を見るとこの場所は日本橋から京橋・銀座へと向う目抜き通りに面した一等地である.

2011年1月9日日曜日

有隣堂・穴山篤太郎

東京市京橋区南伝馬町二丁目十三番地.電話京橋一〇五五番(明治40年・陸軍獣医学校「病馬治験録」)とある.有隣堂の建物は関東大震災で破壊されている.古い地図を参照して現在の位置を探してみると,京橋区二丁目の明治屋ビルの辺となる.有隣堂は明治七年二月十八日創業.創業者篤太郎(とくたろう)は1919年3月歿.明治四十三年二代目が相続.
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