書物の形態
表紙と大きさ,紙
書物の大きさは縦鯨尺の五寸五分,幅鯨尺の四寸,和綴じの書物で,表紙の色は黒に近い濃い茄子紺.題簽は家畜医範○○学 数字巻幾つと印刷されている.
紙は上質の和紙で一部に洋紙が使用されている.我が国で木材パルプによる洋紙生産が始まるのが明治二十二年であるから,書物に使用されている洋紙は,それ以前の木綿を原料としたものと考えられる.大正八年の「日本案内」には『江戸川の辺には流水を利して,製紙の業を営むもの多く,江戸川紙の名産あり.江戸川製紙合資会社 製品概目 半紙,美濃紙,印刷用紙,鳥ノ子紙,書簡紙・・・』とある.英国人技師の指導下に機械による洋紙生産が始まるのは明治七年の「有恒社」からで,翌八年には「抄紙会社」現・王子製紙が生産を開始する.明治初期に洋紙が必要となった原因は,大量の「地券」発行のためで,その後西南戦争による新聞発行部数の激増が拍車をかけた.
書物の体裁と版の様式
家畜医範巻一は解剖学一で,表紙の裏側,洋本の様式では『見返し』になる部分は黄色紙が張付けられ,
駒場農学校獣医教師ヨハ子ス、ルードウ井ヒ、ヤンソン校閲
駒場農学校助教獣医学士田中宏纂著
解剖学一
家畜医範 巻壹
農商務省農務局蔵版
とある.
その次は洋本の様式では『ノド』になる半丁の洋紙で,左肩に家畜医範 中心に農商務省蔵版の曲尺の二寸の方印が朱で捺されている.裏には何も記されていない.この丁を拡大して詳細に観察すると,左肩の四文字と枠はインクによる凸版印刷で,方印の周囲の飾り枠は凹版で印刷されている.この凹版印刷技術は明治八年に紙幣印刷用の技術としてイタリア人のキヨソネから我が国の造幣局に伝えられたものである.
本文の版の様式は,四辺子持ち罫,匡郭の大きさは毎丁鯨尺の四寸・六寸で本文は半丁十行,行二十字.序文の部分は匡郭同寸で半丁七行,行十五字である.版芯は家畜医範 魚尾となっている.
第一丁は農務局長兼駒場農学校長従五位勲六等岩山敬義の記した序文である.序は三丁で,その後に本文と同じ書式で凡例が二丁,更に総目次が七丁,例言一丁,目次九丁があって解剖学の本文が始まる.
本文の印刷様式は伝統的な墨摺りで,行二十字であるから文字の大きさは丁度鯨の二分角の大きさ・すなわち『初号木活字』版となる.「家畜医範」出版当時,金属活字・油性インクによる活版印刷は既に汎く普及していたが,この技術は洋紙を用いた,大量印刷に適したものである.これに対して,古くからの伝統的な和紙・整版・手摺りの出版物は,長期の保存に耐えて来た実績がある.「家畜医範」の表紙の下張りには,有隣堂で出版した農業書の校正原稿などが使用されているが,これらの中には金属活字油性インク印刷のものが殆どである.
巻一の本文は百四十四丁で,刊記は明治十九年十一月十六日版権届,同二十年六月出版,農商務省農務局出版とある。発兌は有隣堂・穴山篤太郎である。
穴山篤太郎(あなやまとくたろう)・初世 ?~明治15年7月30日(?-1882)
有隣堂創業。号、竹史。郡山出身。明治7年(1874)有隣堂を創業。農業書を多数出版した.業界が未分化の時代で当時の他の出版社と同様に、書店・古本屋・取次店を兼ねていた。
篤太郎は、2世・3世・4世と続く。墓は、谷中霊園 甲9号16側。写真、2世(?-明治24年3月19日)。3世(?-大正8年3月27日:号、芳水)。4世(明治17年~昭和2年10月25日)であるから,「家畜医範」は二世の時の出版となる.有隣堂の場所は京橋区南伝馬町二丁目十三番地とある.明治時代の地図を見るとこの場所は日本橋から京橋・銀座へと向う目抜き通りに面した一等地である.
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