明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2010年11月30日火曜日

馬経大全の書誌的研究・日本獣医学雑誌第二十三号

馬経大全の書誌的研究     架夢茶庵完児
旧東北帝国大学図書館の蔵書・和乙八二八八に『馬経大全』がある。この書の絵扉の題は馬経大全、目録部書名・新刻参補馬経大全で、春夏秋冬四集四巻から成る。編者の名は国師・馬師問、寶善堂の梓である。春集の巻頭書名は新刻参補針醫馬経大全、四辺は双行、目録部のみ有界で、匡郭は縦二十一・五糎、横十三・五糎、毎半葉十一行、行二十六字、仮名混り漢文である。夏集は新刻参補針醫馬経大全、春集同様の版であるが、行二十八字となる。秋集は新刻参補馬経大全、末尾に大字で参補馬経大全秋集終とある。更に冬集は参補針醫馬経大全と書名が変わり、目録部は無界となる。冬集末の奥附は書林西村市郎右衛門蔵版で、刊年等の記載は無い。奥附の後には半葉の広告がある。
『馬経大全』について謝成侠は『中国養馬史』の中で、『元亨療馬集』をもとにして、明暦二年(一六五六)に日本の国師・馬師問が編集し刊行されたと述べているが、馬師問とは日本人の実名であろうか。実名とすれば一体いかなる人物で『馬経大全』は『元亨療馬集』からどのような経緯をたどり刊行されたのであろうか。本文はこれら数々の疑問点を明らかにすべく、西村市郎右衛門蔵版の『馬経大全』を手掛かりに、書誌的研究を試みたものである。

一、西村市郎右衛門について
西村市郎右衛門は一人ではなく、数代にわたり名称が継承される江戸時代初期からの、かなり有力な京都の書肆である。板元所在地は、天和から元禄頃が京都三条油小路東へ入ル町、宝永頃は烏丸通六角下ル、享保年間になって堀川錦小路上ルと変わる.
元禄から享保にかけては、わが国でも出版が盛んになり、刊本も増加するが、それと共に幕府の取締りも強化されて、出版業者達は京、大坂、江戸と、それぞれに書林仲間を作り、相互に連絡、監視、統制を行う。この当時の仲間記録に『京都書林行事上組済帳標目』(3)があるが、宝暦から明和にかけて西村市郎右衛門の名はしばしば登場する。図一は、明和三年(一七六六) のものである。
『一、療馬醫便西村市郎右衛門出板馬療撮要銭屋三郎兵衛出板之所大坂本屋新右衛門方馬療弁解指構付越之分新右衛門持被上候事井大坂行事より書状之写』
西村・療馬醫便と銭屋・馬療撮要〔馬療針灸撮要・作者泥道人、宝暦十年(一七六〇)刊〕に対し、大坂本屋新右衛門が馬療弁解〔作者似山子、宝暦九年(一七五九)刊〕と内容が同じであるとのクレーム(差構)を付けた事件の記録である。
大坂本屋新右衛門の主張が正しければ、似山子、泥道人、療馬腎便の作者は同じ人物という事になる。このような事例は少なくなく、当時の出版方法からしても版木を入手しさえすれば、中身は元のままで、書名、作者名を作り変える事は簡単で、しばしば行われたと考えられる。
しかし残念ながら、『上組済帳標目』の古いものは欠けており、西村市郎右衛門は代々同じ名称を用い、刊本も多数にのぼるため、この標目中から『馬経大全』を選び出す事はできなかった。そこで改めて西村市郎右衛門蔵版『馬経大全』自体を調査し、検討を加えた。

二、載文堂の広告と奥附

西村市郎右衛門蔵版 『馬経大全』冬集巻末には、半葉の広告があると先に述べた。この広告の上下段には、岡本為竹一抱子述作の医書十二と、六つの医書々名があり、『馬経大全』もこの内に加えられている。坂元は京堀川通錦小路上ル町、載文堂西村市郎右衛門である。
岡本為竹とは近松門左衛門の実弟で、一抱子と号する人物であるが、彼の述作書の書名は、上段右より貞享二年二六八五)、同五年(一六八八)、元禄三年(一六九〇)、同四年 (一六九こ、同八年 二六九五)、同十三年(一七〇〇)、下段は元禄九年 (一六九六)、同十二年(一六九九)、末刻、未刻、未刻、享保十三年(一七二八) とほぼ刊年順にならべられている(4)左側には唐本も見られるが、竹中通庵の李士材三書は元禄六年(一六九三)、鍼法口決指南(和田養安) は享保十三年 (一七二八) の刊本である。既刊書の刊年から、この広告は間違いなく享保十三年(一七二八)以降に印刷発行された事がわかる。しかもその年には、三つの岡本為竹述作医書は未刻である。未刻の一つ回春脈法指南六巻が、載文堂より『萬病回春脈法指南』六巻として刊行されるのは享保十五年(一七三〇) の事である。つまりこの広告は、享保十三(一七二八)~十五年二七三〇) の間に作られたとしか考えようがないのである。
享保十三年(一七二八) と言えば、ちょうど西村市郎右衛門が、京六角通烏丸西へ入ル町から、広告にある堀川通錦小路上ル町へと出版元を変えた頃である。つまりこの広告には、書物の宣伝以外に、出版元を変えた事を知らせる目的があったのではあるまいか。
広告の前には奥附がある。ここには、単に書林西村市郎右衛門蔵版と記されているが、つぶさに調べると、この部の下の匡郭には段差がある。しかも双行は行間寸法が異なる。他の葉には、このような段差のある匡郭は全く認められない。
著者も木版の経験があるが、このような版の乱れは明らかに埋木である。版木に鋸を入れノミで割落して、別の版木を埋めたのである。では、新刻と称する版に、埋木をしてまで版元の名を入れねばならなかった理由は何であろうか?。他人の版元の名がそこに刻まれていたとしても、それならば平鏨で削り落せば十分に事足りる。その理由は他に存在した。享保七年二七二二)十一月の 『一、何書物によらず、此以後新板之物、作者井坂元之実名、奥書二為致可申候事』 (御触書寛保集成」 の布令である。これまでの広告と奥附の調査から、西村市郎右衛門蔵版載文堂 『馬経大全』 は享保七年(一七二二) 以降の刊で、販売は享保十三 (一七二八)~十五年(一七三〇)頃と推測されるのである。

三、河内屋喜兵衛版『馬経大全』

先の『馬経大全』が、その後どのような運命をたどるかは定かでない。再び登場するのは、幕末の頃、所は大坂心斎橋通北久太郎町である。
載文堂『馬経大全』 の版木が河内屋書兵衛の手に渡ったのである。河内屋『馬経大全』 にも刊記はない。しかし奥附に並ぶ売元十二の名から、発売されたのは明らかに幕末期である。
余談になるが、河内屋『馬経大全』 の刷り上りは上等である。上質の版木としては硬い桜が用いられるが、これとても刷り重ねるに従って、段々につぶされ、不鮮明な刷り上りとなる。河内屋の版が載文堂のものより鮮明である事は、なぜであろうか。復刻改版であることが明らかにされる.

四、馬経大全の記録

これまでの調査で、載文堂-河内屋、享保-幕末、京都-大坂を『馬経大全』 に関して線で結ぶ事ができた。そこで次は、享保年間を出発点に潮り、古い記録をたどる事にした。
◎ 好書故事
書物奉行近藤正斎の残した記録である。巻五十八・九に次の条がある。
(一七二三)
「長崎唐方覚書二 享保八卯年九月
一 馬療之書
右は馬鏡大全之外昔時相用書持渡候様被仰渡卯貳番船主(一七二五)李亦賢御請、但翌々巳年二月療馬集壹部同人言傳遣候を六番船主朱允光持渡為御褒美李亦賢へ銀三枚被下置」
 これには書名が『馬鏡大全』とあるが、御褒美付の特別注文書である。『六番船書籍改』により享保十年(一七二五)の舶載書を調べると、『元亨療馬集』一部一套に『折本馬医書』二冊である。
◎ 江戸幕府編纂物
この本では『有徳院殿御実紀』附録巻十五の「其後仰により馬経大全の和解をもつくりて奉れり」との官医・林良適の記述を引用している。さらに著者福井保は、『馬経大全』は明の馬師問があらわした馬医の書で、『新刻参補針醫馬経大全』と称する明刊本が舶載され、京都の上村次郎右衛門が翻刻した和刻本も流布していたと述べている。上村版については、賓善堂本重刊として杏雨書屋蔵書杏五五六四に書名があるが、元禄九年(一六九六)以前に刊行されたものである。(後述)
◎徳川時代出版物出版者集覧
これでは、狩野文庫蔵本の『馬経大全』について触れている。一つは玉水屋・北尾八兵ヱ版と、今一つは先に述べた西村載文堂の版である。玉水屋・北尾八兵ヱ版は、営業年間から元禄十一年(一六九八)⊥享保三年(一七一八)の刊行と考えて誤りないであろう。いずれも明・馬師問の編とするが、馬師問を明国の人とする証拠に乏しい。
◎倭板書籍考
元禄十五年(一七〇二)に京都の木村市兵衛によって書かれた自筆の記録である。『新編集成馬医方』には馬経大全の標名があり、「馬経大全」八冊は朝鮮人の作,『参補馬経大全』は非和本と記録している。
朝鮮活字刊本「馬経大全」について、三木栄は、著書の中で『新刻参補針医馬経大全』四巻四冊は『郷薬集成方』と同じく李曙が訓錬都監小活字を以って仁祖十一年(一六三三)に刊行したもので馬師問なる者の撰で明の書である』と述べている。
朝鮮活字本の馬経大全は、杏雨書屋蔵書乾五一七九に、『新刻馬経大全』秋集一巻 朝鮮 闕名撰 朝鮮活字本一帙一冊として、一部分がわが国にも現存している。
朝鮮における『馬経大全』は壬辰・丁酉の倭乱、丁卯・丙子の胡乱といった戦乱に処するため、それまでの安驥集系『馬医方』に変わり、明から導入されたものである。朝鮮では、明のいかなる書を基に『馬経大全』を刊行したのであろうか。
◎正徳-寛文の書籍目録
正徳五年 (一七一五)、宝永六年 (一七〇九) 〔元禄九年(一六九六) の改版〕、元禄十二年 (一六九九)、元禄五年(一六九二)、貞享二年二六八五)版、延宝三年(一六七五)、寛文十年二六七〇)の書籍目録にはいずれも「八 馬経大全 馬師問編」とある。元禄九年(一六九六) 以降のものには、八冊上村次 (郎右衛門)の小字が付され、前述の上村版は、この時すでに刊行されていた事が明らかにされる。
◎和漢書籍目録
この目録は無記銘であるが、書誌的には寛文六年 (一六六六)頃のものとされる。『馬経大全』の書名はあるが、刊年、編者、版元等の記載はない。
◎東寺観智院蔵萬治二年書写本
わが国最古の書目集とされる萬治二年(一六五九) の東寺観智院蔵書写本には、『馬経明集』、『同大全』とあり、「馬経大全」の名がある書物が存在した事が明らかにされる。
 これまでの記録の中で注目すべきは好書故事,江戸幕府編纂物,である。好書故事,江戸幕府編纂物は明から直接『馬経大全』と称する『元亨療馬集』がわが国に持ち込まれた記録で、発注者は時の最高権力者である幕府・将軍吉宗である。将軍吉宗は武術わけても馬術を好み、馬書・馬医書の類から、馬・馬医まで広く海外に求めた事はよく知られている。
一方、倭板書籍考の記録は明らかに朝鮮経由である。ここで経由とするのは、三木栄の述べるように、大陸から輸入されたものである事による。では一六三〇年頃の当時、明で最新、最高の馬医書で 『馬経大全』の名を持つものは何か。それは、わが国からも注文のあった『元亨療馬集』に他ならない.
『元亨療馬集』に『馬経大全』の表題が付けられる事は、明~清代に余りにも版本が多いため、現代の中国でさえも明らかにされていない。そこで、次に中国での  『元亨療馬集』 の刊行流布の跡を、わが国での記録も折り混ぜてたどってみた。

五、元亨療馬集

丁序本『元亨療馬集』の刊行は、明の萬暦三十六年(一六〇八)の事である。原刊の序末には「萬暦著雍◆灘歳清和之吉、嘉善丁賓改亭氏題」とあり、明の萬暦三十六年四月初一日に丁賓が序文を書いた事から明らかである。『元亨療馬集』 とは喩兄弟の字をもって付けられた名で、兄は喩仁、字本元、別名曲川。弟が喩傑、字本亨、号月波。字の二文字を採ったものである。
序文の作者丁賓は、明朝新江省嘉善の人で、字は礼原、号して改亭、隆慶五年(一五七一)に進士になって三十余年間、南京で官の職に就く。崇禎六年(一六三三)卒。十六世紀の後半期、元亨兄弟と親交があり、二人の卓越した獣医術とすぐれた人柄をたたえて序を贈ったと中国の書には書かれている.
◎四庫全書総目提要
四庫が館を開くのは清の乾隆三十八年(一七七三)、全書総目が成るのは同四十七年(一七八二)の事である。この記載によれば、

「[療馬集四巻附録一巻]内府蔵本 明喩傑同撰仁傑皆六安州馬医其書方論頗簡明附録一巻則医駝方也」

書名が単に『療馬集』で字が見られない事、附録が医駝方である事、序文について全く記載がない事から、内府蔵本として収められたものはきわめて初期の書で、丁賓序本よりも古い可能性をうかがわせる。前後には『水牛経』『安驥集』『類方馬経』、『司牧馬経◆驥通元論』、『◆驥集』等の中国古典獣医書の名が並ぶ。
◎重編校正元亨療馬牛駝経全集
本書の序と校記説明には、集成と成立の過程が述べられている。『元亨療馬集』には、丁序本と許序本があり、原刊は丁序本で、許序本は清代の再版である。この二者は序以外に内容の一部が異なり、再版許許序本は、〔東渓素問砕金四十七論〕を欠く。
東渓素問砕金四十七論は、東渓主人こと衰希◆と、曲川(喩仁=兄)の二人による馬の生理・病理に関する問答集で、秋巻の重要な部分である。新たに開発された術、論を加えながら集成されていく過程において、削除は珍しい事であり、序文と共に伝わる『元亨療馬集』が、丁賓序本か許◆序本かを知る重要な手がかりとなるものである。
◎舶載書目
亨保九年(一七二四)の舶載書目第十四冊四十四丁から五十四丁にかけて、『元亨療馬集』と『療牛集』の記録がある。
発注は、「好書故事」によれば享保七寅年(一七二二)十二月、寅九番船主施翼亭御請、御褒美銀三枚付の特別な文書である。
書名に続いて目録内容を詳細に記録しているが、これは幕府からの注文書物が、初めて長崎に公式に舶載された事を示している。目録からこの書は、新刻蘇板・丁賓序本で、東渓素問砕金四十七論を有している。附録は薬方である。この記録は先に『馬経大全』の項で述べた官医林艮適・和解の記録と年代的によく一致する。
◎典籍秦鏡
天保十二年(一八四一)辛丑秋七月の自筆序文である。これには、明版と清版が区別して記載されている。明版の『元亨療馬集』は全四冊で、相馬全書、相馬経、療馬全集の名がある。
◎徳藩毛利家蔵本療馬全集
『元亨療馬集』 について調査を重ねるうち、山口大学図書館の旧徳山藩毛利家蔵の療馬集を調査する機会を得たので、ここに紹介する。
徳藩蔵書印のある『元亨療馬集』は四巻六冊、四辺双行、有界で匡郭寸法縦二十糎、横十三・五糎、毎半葉十二行、行二十三字である。扉には刻蘇板全相大字元亨療馬集 金陵三山街世徳堂梓とある。次の丁は目録で「新刻蘇板元亨療馬集目録 療馬全集一百三十九論春夏秋冬四巻」と続く。巻頭書名は元亨療馬集、集は六安州医獣 喩本元亨、校は東渓主人・衰希◆、汝顕堂梓である。春巻は四十七丁、末に六安州医獣揚潮字東源朱鉦字従爾 同集と二人の獣医の人名がある。夏巻は元亨療馬法 六安州 曲川 喩仁字本元編 月波 喩傑 字本亨集 金陵 少橋 唐氏 汝顕堂梓で、巻末は先の二人の名に代え、曲川撰とある。秋巻は再び六安州医獣揚潮字東源朱鉦字従爾全集。冬巻は無記銘の巻末である。次いで丁数は一に改まり、目録もなしに駝患黒瘡病第一が駱駝の図と共に展開する。これが附録の医駝方である事は、丁を進め十三丁目に「新刊医駱駝薬方附後」と記されて初めて理解される。医駝方は十七丁あり、版の大きさは療馬集の部と同じである。この医駝方の部には編撰者等の人名は全く記されていない。
 この『元亨療馬集』 には序文がない。第一筋目に一部糸切れは認めるも保存は良く、葉を欠いた様子はない。序文はないが、目録と内容には 〔東渓素間砕金四十七論〕があり、清代再版許◆序本以前の姿を留めている。では、六安州医獣揚潮字東源らにより〔新刻蘇板〕として翻刻された元亨の療馬集とは何か。
乾隆四十年(一七七五)、原刊作『元亨療馬集』を忠実に世に伝えんとして翻刻された郭杯西の『新刻注繹馬牛舵経大全集』自序に次の条がある。
「喩氏伯仲。集注先賢症論。倶各盡善。熱意書成萬暦著薙◆灘歳。至康紀州十九年庚申歳。吾州警獣揚東源翻刻。今乾隆四十年乙末歳。又。復翻刻。……」揚東源らの翻刻した『元亨療馬集』は、原刊作七十二年の後、康煕十九年(一六八〇) に刊行されたものである。これは許序の再版よりも五十六年早く、原刊作の姿を留める貴重な書と言わねばならない。
特別注文で銀三枚御褒美付の貴重書が、外様の大名の、しかも毛利支藩の徳山藩に伝えられた由来は定かでない。幕府の『元亨療馬集』は『元治増補御書籍目録』子部、附録にある如く、療牛集二巻、駝経一巻と共に幕末まで大切に保管されている。

六、馬経大全と元亨療馬集の比較

これまでの調査において、複写ではあるが、賓善堂梓・西村載文堂『馬経大全』と、汝顕堂梓・世徳堂『元亨療馬集』を入手し、その刊年を考証した。そこで、次にこの二者の目録、図、内容本文にわたる比較と照合を試みた。比較照合は『馬経大全』の冒頭にある目録の番号順に従った。
目録には順の変動、省略分割、誤刻があるも、まず同一である。図にも大きな差は認められないが、『馬経大全』の相馬法 三十二相形駿之図と旋毛図には各所に墨ベタの部分がある。これはいかなる理由によるものであろうか。あえて文字を伏せた点に、時代を背景とする作意が感じられる。本文内容では『元亨療馬集』は「出口□□」と引用出典の古典獣医学書の名が明記されるが、『馬経大全』にはこれがない。その他にはわずかな文字の誤刻、生薬名の違いを認めるも、ほぼ同一である。つまりこの二者の差は、中国語か、仮名混り漢文の日本語かの記述様式のみである。例えるならば、中国服と和服を着た一卵性双生児のようなものである。

七、馬師問と寶善堂

最後に、この書誌的研究の発端となった、国師・馬師問と賓善堂について述べる。まず、馬師問とは何処の国の人物であったろうか。わが国の多くの記録と、朝鮮経由説の三木栄は、明国の人とする。確かに中国大陸には、馬師皇をはじめ馬姓の人物が存在し、その可能性は最も高い。しかし、そのうちの誰が載文堂『馬経大全』 に見られる返り点、片仮名付の日本語版元亨療馬集を翻刻し得るであろうか。大陸には日本に向けて『元亨療馬集』を翻刻したとの記録はない。
次に、朝鮮にも馬姓の人物と 『馬経大全』がある。しかし、馬師問が朝鮮の人物であるとするわずかな可能性も、『倭板書籍考』 の木村市兵衛は「編者ノ名ナシ」「倭本ニナシ」と否定的である。更にこの期の朝鮮半島においては、『新編集成馬医方・牛医方』序文にある如く、「(京畿道)南陽 (姓)房 (名) 士良」著と、姓名に出身地を冠して表わすを常とする。国師とは、朝鮮半島の一体何処の地であろうか。
やはり馬師問とは、謝成供の述べた如く日本人であろう。ただし、日本人には帰化人を除いて馬姓は稀で、この名称は架空のペンネームであると著者は考える。第一『馬経大全』の編者が馬師二問フとは、偶然にしても出来過ぎである。しかも、わが国には泥道人、似山子と称するペンネームとしか言いようのない療馬書作者が存在する。読点もなく、難解な専門用語を織り混ぜた『元亨療馬集』に、返り点、送り仮名を付け、日本語に翻訳する事は、高い学識を有する者の成せる技で、その学識をもってすれば、「帝問馬師皇脈色論」から、馬師問のペンネームを作り出す事は、容易であると考えるのである。
さて、ここに一つの不思議な書がある。浅野図書館貴重図書印のある 『新刻京陵原板参補針醫牛経大全』上巻の巻頭書名・新刻京陵原板校正参補針醫牛経大全、下巻同新刻京陵原板参補針醫牛経指南である。版は四辺単線、匡郭二十×十一・五糎、半葉十一行、行は空一格の二十七文字、寶善堂の梓行とある。
本書の内容はこれ又『元亨療馬集』 の附録療牛集『牛経大全』 と同じで、書名から京陵原板本の翻刻である事が読み取れる。梓行は 『馬経大全』 と同じ賓善堂である。しかも手を加えた(参補)のも『馬経大全』と同様に針医とある。針医・賓善堂梓・元亨本の翻刻と、これだけの条件が整いながら、さすがに牛の事まで馬師に問うには気がひけたとみえ、馬師問の名はない。馬師問は依然として謎の人物である。

参考文献 
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(2)湯沢賢之助、西村市郎右衛門(代々) の出版・文筆活動、国文学・言語と文芸、88‥89-108。
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(9)矢島玄亮、徳川時代出版物出版者集覧、常葉堂(一九七六)。
(10)井上正己、日本書目大成刷、井上書房(一九六三)。
(11)三木栄、朝鮮医学史及疾病史、自家出版(一九六三)。
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(14)中国農業科学院中獣医研究所、元亨療馬牛舵経全集、農業出版社(一九六〇)。
(15)中国農業科学院中獣医研究所、元亨療馬集選樺、農業出版社、(一九八四)。
(16)王雲五、四庫全書総目提要、台湾商務印書館(中華民国六七年)。
(17)荒井秀夫、国立公文書館内閣文庫影印・典籍秦鏡、ゆまに書房(一九八四)。
(18)小川武彦、徳川幕府蔵書目、ゆまに書房(一九八五)。
(19)安徽省農業科学院畜牧獣医研究所、新刻注繹馬牛乾経大全集、農業出版社 (一九八三)。
(20)大庭脩、江戸時代の日中秘話・東方選書5、東方書店(一九八〇)。
書名等の記述は、長沢規矩也著・和漢古書目録記述法に依った。

付記 元の論文(縦書)をOCRソフトで読み取ったもので変換ミスや表記不能の文字が多々ある。

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