山口大学獣医学科は,旧制山口獣医専門学校創立の1949年からの3~4年間の草創期に,2ツの大きな禍根を抱え込んだ.その余燈は,実に半世紀以上経過した65年余の現在も燻りつづけ,それは獣医学部に機構拡充し,農学勢力のaheadから脱し,獣医学教育体系独自の機能展開とならない限り今後将来も続くこと必定である.
禍根の第1は,獣医学科が既設先発校でありながら,後発の“佐賀閥を中心とする農学系勢力”の策略によって, 獣医学科を踏み台にした農学科の新設を洪手傍観したことだ.策略の真相は,獣医学科本来の拡充計画決定講座数の1/2を取って,農学科新設の講座に充当した点にある.現今の獣医学科教育機構の貧弱細小の原因は,古諺の“軒(ノキ),庇(ヒサシ)を貸して母屋(オモヤ)を取られた”の図式,具体的には“寄生虫(農学科,農芸化学科)に寄生された宿主(農医学科)が,栄養不良で成長が停滞したまま,生存はしている”のパターンに起因するものである. 磋鉄は,1946年2~3月山口獣医専門学校学生ストライキを点火煽動拡大して,初代獣医専門学校長海老原初太郎を追出した事件の黒幕,仕掛人である非獣医師(東大農芸化学,県立小郡農学校長,佐賀閥の頭目)の男が,ヌケヌケと獣医専門学校長に就任したことに始まった. 一驚することは,副校長役の立場の獣医専門学校教務主任(東大獣医科卒,佐賀閥の副頭目,外地の中等農学校教員上がりの男)以下,教員達中一同が,この非獣医師校長の野心(農専校,農学科を設立する)と辣腕に易々諾々で無条件服従したことだ. ストライキで教員が四散払底し,加えて占領軍総司令部GHQ命令の公職追放令(1946年11月~1952年4月約6年間が優秀な教員適格者の獣医学系高専校・大学への就職を阻み不幸を拡張した. 禍根の第2は,獣医学科教員の人事が‘‘佐賀閥中心の農学系勢力”に萬事牛耳られてしまったことだ。佐賀県出 身者で東大獣医学科卒業者及びその系列者ならば,学識,人格,前歴,等々が教育者,研究者として完全な不適格 者でも即日即刻任採用された。職業。称こそ大学教授だが,その実態は中等農学校教員同等もしくはそれ以下の学 識,実力,能力の人物ばかりであった。現在もその余塵残臭を抱えているのが実状である。尤も昭和50年代中葉以降,佐賀閥の残臭が衰滅に近いことは時代と人の変遷,推移でもあろう。 以上,2大禍根の生成の原因は,当時の獣医学科教員があらゆる点で獣医学教職者として,極めて不適格,無気 力,無責任であったことに起因する.そしてまた,獣医学校の校長は獣医師であることが絶対条件であること,また,獣医学,獣医業,獣医師を愛する人物が教職員として不可欠であることを物語っている。 とりわけ,ストライキ後の壊滅した教員スタッフの再建担当重責者である獣医専門学校教務主任の男が,閥のし がらみと無気力で,当事者能力を欠除していたことが決定な不幸であった. 筆者はこの第2部において,建学の時点に何故に獣医学部にならなかったのか。その経緯とこれに関連派生した 数々の史実,教訓,エピソード,等々について,当時を知る存命者の一人として記述し,後進者への参考に供する.
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