明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.

2013年12月17日火曜日

狗賊について

狗賊について
 『暁鐘成子たまたま愛畜するところの狗有り。名は皓。是歳秋八月廿一日暁天、かきねをこえ露臥す。乍ちにして狗賊の害する所と為る。主人悲哀に堪へず・・・云々』暁鐘成の愛犬は狗賊に害せられたので遺骨を葬りその霊を弔うとある。その事を記した碑は牧岡公園暗峠入口・日蓮宗梅龍山勧乗院にある。
 狗賊とはどのような賊徒であろうか?まず最初に考えられるのは犬撮り、犬釣り、犬盗人の類である。しかし、賊の捕獲した犬は犬追物の的とされるから、傷のない生きた犬でなければならない。しかも、賊徒・河原者の犬捕獲道具は竹筒に紐、袋であるから、屋敷の外で寝ていて突然殺されると言う事はない。賊徒の目的は単に犬を撲殺することか、その死体の皮や肉など捕獲するためであったと考えられる。
 寺島良安の「和漢三才図会」では、牛馬猫犬を屠り、皮を剥ぐのを職業としているのは昔の餌取で旃多羅、屠児(えとり・えた)とする。剥いだ牛馬猫犬の皮の用途は武具、太鼓、楽器、敷物等と考えられる。また、この書には犬肉の効能についても記されているから犬肉も貴重な蛋白源になっていたことは確かである。
 しかし、皓を襲った賊徒は死体をそのままにしているから、これは明らかに犬を撲殺することのみがその目的である。既に近世には狂犬病が存在し、流行時には野犬の撲殺が行われた記録が各地に見られる。(はしか犬・長州藩の犬取りについて。長州藩部落解放史研究、布引敏雄)明治十二年七月一日東京曙新聞に『狂犬撲殺の事は下谷練塀町三十一番地当府士族村上弘重、同車坂町二十一番地橋本義年の二名へ委託の鑑札を下附』とある。また、明治十六年五月二十六日「畜犬取締規則」では警視総監は『狂暴の犬は撲殺を許可』している。戦前の野犬撲殺業者は犬釣りや犬ころしとも呼ばれたと、「広辞苑」等にも記載があるが、昭和二十六年以前の旧家畜伝染病予防法での屠殺処分方法は殆どが撲殺である。
 暁鐘成の愛犬・皓は暗峠で主人を守って命を落としたとの説があるが、真相はやはり碑文に有る通り狗賊にやられたと考えるのが妥当である。


0 件のコメント:

コメントを投稿