昭和十九年四月二十五日火曜日,福岡と山口は雨が降っていた.翌二十六日の開校式のために,三十六名の人員が入舎,宿泊した.
二十六日,西日本は晴天となった.午前十時より『山口高等獣医学校』の開校式が執り行なわれた.この時期の日本人は殆ど栄養失調で,米麦を食い尽くし,高粱,芋,南瓜に野草や藁までもが食料になっていた.
開校式にひき続いて十一時から入学式が挙行された.十二時より祝賀会が行われたはずであるが,何を飲食したかは校務日誌には記載が無い.当時の食料・酒は全部配給制で,日本人の殆どが基礎代謝量以下のカロリーと蛋白質でやっと生きていた.ただ,不思議な事にこんな時代でも煙草の配給だけは滞りなく行われているから,日本とは不思議な国である.
開校の法的根拠は昭和十九年一月廿六日の「国専第五号」で,戦時下の獣医師の育成にあった.この他に農学校第二部卒業生への獣医免許付与の制度があるが,これは獣医免許制度の戦時特例で,山口県では極短期間ではあるが,農学校二部と高等獣医学校の二箇所で獣医の育成が行われていた.農学校は山口県の所轄で校舎は小郡の山手にあり,高等獣医学校の所轄は文部省で校舎は蔵敷の小郡高等女学校の後に設けられた.
『山口高等獣医学校』は昭和二十年三月二十九日,『山口獣医専門学校』と改称,昭和二十三年十二月十五日に下関市長府に移転し,昭和二十四年二月二十日に『山口大学農学部』となった.
明治維新の頃,日本にはまだ獣医の制度はありません.この頃は馬の療治は武士の身分の「馬医」が行っていました.やがて,軍隊が洋式化され,革靴,羊毛服,牛肉缶詰が大量に必要となると,馬医は獣医と名称を変え,資格も国家試験免状となります.日本の獣医術や獣医学は主に軍馬の治療と軍人の食料(牛)・衣服(羊)のために発達しました.軍犬や軍鳩が研究の対象となるのは,ずっと後の事です.